□20220607-10続養老先生

同じは、抽象化能力である。
カテゴリ化して同じと見なす。
音の高低も同じと見なす、父親の低い声で私を呼ぶ「太郎」も、母親の高い声で私を呼ぶ「太郎」も同じ言葉と見なす。

抽象化能力のトップにいるもの、すべてを同じにしてしまうものが、お金である。お金はすべてのものを、同じ、等価にしてしまう概念である。等価交換するための魔法が、お金である。

朝三暮四は、私たちの性質を現している。1日に集約しているから、低俗な意味に捉えられるが、実際は、時間軸を長くすれば、私たちは朝三暮四に収束する。私たちは、自然と、未来にある不確実よりも、目の前にある現実を優先してしまう。

目から入ったものと、耳から聞こえるものは違う。目から入った情報と、耳から聞いた情報を、同じにするのが、言葉である。目と耳を全く同じに使える。点字もあるから、触っても同じである。例えば、麻雀の盲牌である。視覚、聴覚、触覚は、同じ言葉が作れる、言葉を持つ。味覚、嗅覚は、言葉を持たない、同じ言葉が作れない。

同じと違うは、何が判断しているのか、感覚である。同じであれば、感覚が働かない。

メディアは同じを進歩とした。

メディアの本質は、同一化・均一化させる方向へと、大衆を誘うことだ。
それは、大衆の社会的感覚の同質化を目指す。大衆の価値観を同一化することで、モノの見方や考え方が一方向へ定まり、大衆をその方向へ誘導することができる。価値観を統一するということは、同じモノの見方を強要することなので、洗脳である。洗脳された大衆とは、奴隷である。身体を拘束されて、労働を強いられるだけが奴隷じゃない。脳をハックされて、洗脳されて、脳から行動を支配するのも、また、奴隷の一種である。
社会の同質化は、奴隷を生み出すシステムである。

社会の同質化に対する、違和感という感覚が、自由を求めた。

自由な人生を歩きたいと願った。

人生は、生から死までのプロセスだ。

人生とは、過去の記憶に意味付けしていくことである。

今、生きている現在に意味を求めても難しい、未来において現在を振り返ったときに、その記憶に意味付けをするだけだ。

現在は、過去の記憶に意味付けしている。不幸の最中には、なぜ、こんな不幸が自分を襲うのか理解できない。未来において、理由がわかる。幸福の最中には、幸福であることに気付けない。未来において、あの時は幸福だったとおもう。私たちは、不幸にはかんたんに気付くけれど、幸福には鈍感な生き物である。

自分の人生にどんな意味付けをしていくかは、自分次第だ。自分の解釈に制限はない、自由だ。

人生とは、生命の営みである。

生命は、命をつないでいくチェーンである。チェーンひとつひとつに意味はないけれど、チェーンがひとつでも切れてしまえば、チェーンは役に立たない。チェーンが切れてしまった自転車は動かない。チェーンが切れてしまったネックレスは着けれない。

意味がないものの中にこそ、意味がある。

私たちが生きていくことに、意味はない。

私たちは、自分自身で、自分の人生に意味付けするだけだ。

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