自己について
2022/5/20
仏教における自己
私が認識した時点で、それは、私じゃない。
私の肉体は、認識できるから、私じゃない。
私の心は、認識できるから、私じゃない。
私の意識は、認識できるから、私じゃない。
私が何かを認識した時点で、それは、私ではない。私とは認識されないものだからだ。私とは、認識できないから、捉えられない。私は、認識できない存在である。
だから、私は存在しない。
「 私は存在しない 」とわかっても、何かが解決するわけではない。何かが変わるわけでもない。悩みがなくなるわけでもない。日常生活がよくなるわけでもない。
「 ああ、そうか 」という体験的理解をしただけだ。
ただ、それから、モノの見方が、少しずつ変わっていくのかもしれない。今までわからなかった概念が理解できるようになるのかもしれない。言葉の意味はわかるけど「 なるほど 」とはならない、体験的理解が伴わなかったことが「 そういうことか 」と真に理解できるかもしれない。
思考の片隅にある「 私は存在しない 」という概念が、少しだけ、思考の幅を広げる。
自分の世界が少しだけ拡張したような感覚である。




新しい気付き
いろいろ泳ぎながら試したら、息つぎのせいで、効率よく泳げていないことがわかった。
息つぎの工程が効率性を妨げていた。
→ 息つぎをしなければ効率よく泳げるはず
息つぎをしなければ、効率よく泳げるが、苦しい。苦しいのは、息のことを意識しているからだ。泳ぐことだけに集中していないからだ。泳ぐことだけに完全に集中していれば息つぎのことなんか忘れてしまう。苦しさのことなんか、体の機能のことなんか、意識しない。日常生活の中で、息をすることを意識しないように。
体の機能を意識してしまうのは、無我夢中になっていないからだ。
完全集中のフロー状態になっているときが私の本質である。
体のことを気にしない、心で考えていない。
体や心から、自由になった状態が私である、自己である。

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