「 クオリアと人工意識 」からの思考

2022/2/3
プログラミングする脳
初めてのことは脳全体を使うので、脳のエネルギー消費が大きい。脳は省エネなので、初めてのことをさせないような方向に働く。
② 何度も続けることで、脳は、省エネのため、プログラミングをはじめる。
③ 何度も繰り返すことで、脳は、プログラムのデバッグをはじめる。
④ プログラムが完成したら、自動化できる。
= 無意識で行える。
⑤ プログラムを毎日決まったタイミングに動かしていると、システムとなる。
= 決まったタイミングに無意識で行う、習慣となる。
集中とは、プログラムが実行されている状態である、意識のほとんどはプログラムを処理することに使われているので、無意識に近い状態である ( パソコンのビジー状態に近い )。意識はあるが、無意識により近い状態である。
一度作ったプログラムやは、必要な時には、サブモジュールとして利用できるので、システム化が容易になる。
省エネしたい脳
人は、脳の仕組み上、新しい行動 ( 動作・情報処理 ) は、苦手である。
脳は、意識を使うこときに膨大なエネルギーを消費してしまう = 意識を使うと疲れる。
脳は、無意識 = 習慣には省エネで対応できる。
脳は、いつもの慣れ親しんだ習慣を繰り返したい、だから、人は新しい行動を起こせない。
人は「新しい行動ができない」という前提からはじめる。
私たちはいつもの行動で、既存の行動 = 習慣で、9割の時間を過ごしている。
遊び
・休日は、同じベッドで寝て起きて、食事をして、遊ぶ
その日常の中で、歯を聴いたり、シャワーを浴びたり、テレビを見たり、ゲームをしたり、おかしを食べたり、酒を呑んだりといった細かな習慣がある。
私たちが生きいく本能として習慣になっている「 食う、寝る、遊ぶ 」という行動が、できない人はいない。誰にでも必ずできる行動だ。
- 赤ちゃんは、言葉を話せない。
赤ちゃんは、食べて寝て遊んでいる存在だ。 - 動物は、言葉を話せない。
動物は、食べて寝て遊んでいる存在だ。
赤ちゃんや動物は言葉を話せない、コミュニケーションがとれないが、食べて寝て遊んで生きている。
私たちは新しい行動ができない。私たちができるのは「 食べて、寝て、遊ぶ 」いう行動だけだ。
「 食べて、寝て、遊ぶ 」という行動を区分する。
「 食べて、寝て 」がなければ生き物として、生きていけない。遊ばなくても生き物として、生きていける、生物学上は、人間性を問わなければ。
「 食べて、寝て 」という生き物としての必要なの行動が、苦痛を伴うのであれば、私たち人類は、これほど繁栄をしなかったであろう。「 食べて、寝て 」という行為は、苦痛ではなく快楽を伴う行為であるから、私たちは容易に行動できる。
私たちは、快楽行為は得意である。セックスは快楽行為であるからこそ、人類は、これほどまでに増殖した。
「 遊び 」はその典型である。快いから、楽しいから、私たちは遊ぶのだ。誰も自分が楽しくないことを「 遊び 」だとは言わない。遊ぶことが嫌いな人はいない。遊びとは、快いし楽しい。また、快いし楽しいことを「 遊び 」という。
「 遊び 」とは、言葉が話せない赤ちゃんや動物でもできる原始的な行動に他ならない。
習慣
また、もうひとつのアプローチとして、習慣がある。
① 習慣的な行動の「 ついでに 」何かをする。
② 習慣的な行動の「 代わりに 」何かをする。
① 例えば、読書したい!
「 読書する 」という新しい行動はできない。
歯磨きをしながら、オーディオブックを聞く、YouTubeの本要約を聞く。
本を聞くことに慣れ、抵抗がなくなってきたら、トイレに本を置いておき、トイレでは本を1ページだけ読む。
② 例えば、運動したい!
「 ジムに行く 」という新しい行動はできない。
駅のエレベーターの代わりに階段を使う。
毎日の駅のエレベーターの代わりに階段を登ることで、無料のジムと考える。ジムの目的は運動だ。毎日の行動の一部を習慣を視点を少しずらすだけで、運動できる。
行動
人は、言葉で伝えても伝わらない。まして、人は、行動なんて絶対しない。
私たちは、新しい行動はできないし、習慣で生きているのだ。
思考の原点を、どこに置くかで、論理は定まる。
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