戦争反対ということは自己否定?

社会

戦争反対ということは自己否定?

2022/1/26

戦争

私は長崎出身だ。

長崎では、夏休みであっても、8/9は、登校日だ。

長崎の学校では、原爆が落とされた8/9に学校へ行って、体育館に集まって、平和集会が開かれる。そして、みんなで、平和について学び、平和について考え、11時2分に黙祷をして祈る。学校以外でも、すべての地域で、黙祷を促す音が鳴らされる。すべての長崎人は1分間の黙祷をする。

私は、そうやって、長崎で18年間過ごしてきた。だから、私にとって、8/9は登校日だし、11時2分には、黙祷の音が鳴るのは、常識だった。

私は、横浜の大学に進学して、驚愕した。

8/9の11時2分を過ぎてから、アレって、気付いた。

黙祷の音がなっていないことに。
黙祷の時間を過ぎていることに。

この世界では、黙祷の音がならないことに。

黙祷の音がなるのは、長崎だけであることに。

私たちは、自分と違う世界を知ることで、自分を知るのだ。

自分の常識が、世間の常識でないことを知るのだ。

私は『 はだしのゲン 』という漫画を愛読していた。小学校の図書館にある漫画は、歴史や偉人の漫画か、はだしのゲンであった。私は、歴史や偉人に興味がなかったので、はだしのゲンを読んでいた。

「 平和って大事なんだな 」って学んだ。

だから、私は「 戦争すべきではない。あんな不幸をまた起こしてはいけない 」と考えるようになった。「 日本が核兵器を持つことに反対だ 」という意見を持った。

「 戦争は悪だ 」と徹底的に説いている『 はだしのゲン 』では、主人公のゲンは、戦争中に、戦争反対と唱えて、その時の常識人に、ボコボコにされ、非国民として、罵られた。

時代を経て、私は「 戦争はいけない、平和は素晴らしい 」という常識を持っている。戦時中なら、私は、もちろん非国民である。

時代の中で、時代の空気によって、常識は定義される。そして、黙祷の音のように、常識の枠の外に出て、初めて、その常識が長崎だけの特有の常識であったことを知る。

常識とは、時代や、環境によって、定義される。

街中に24時間営業の店が溢れているのは日本だけだし、街中に金庫という名の自動販売機が溢れているのも日本だけだ、それは、日本の常識だ。日本の外の外国に行かないと、そのことには気付けない。

常識とは、ある期間に、ある場所で、信じられている事象に過ぎない。
・常識は絶対的な正義ではない。
・常識は永久不滅の絶対ではない。

私たちが信じている、今の常識もまた、未来においては、非常識になるかもしれないのだ。
戦争が常識から、平和が常識になったように。

病院

「 病気になったら病院へ行く 」のが常識だ。

  1. 私は、仕事のストレスで、大腸に腫瘍ができたことがあった。手術をして取って仕事を辞めた。
  2. 翌年、検査すると、前回ほどのサイズではないが、腫瘍ができていたので、また手術をして取った。
  3. そして、さらにまた、翌年「 もう大丈夫だろう 」と思ったけど、また、小さな腫瘍ができていたようで取った。
    そして、検査結果の「 腫瘍が悪性かどうか 」を聞きに行ったとき、医師は、画像を見て説明しようとしたが、腫瘍が小さ過ぎて、わからなくなっていた。
    「 わからなくなるくらいの小さな腫瘍ならば、手術して取らなくても、自然治癒でなんとかなったのでは?」と疑いの目を向けた。

医師は、100%善意で働いているわけではない。
一部の医師は、金を儲けたいから、手術をするのだ。
医師も、所詮、資本主義社会の住人である。
医師は、絶対の権威などではない。
医師が、100%正しいわけじゃない。

私たちは、一生に一度だけ、治らない病気にかかる。
それ以外の病気は治るのだ。
治らない唯一の病気によって死を迎える。
私たちが「 病気だ 」と思っているモノは、気のせいに過ぎない。
中村天風
私たちの精神は摂取する情報でできている。
私たちの身体は摂取する食べ物でできている。
岡田斗司夫

病院へ行くのを辞めた。

身体の不調は、食べ物が原因である、生活習慣も含めたところに原因がある。食べ物を健康にして、生活リズムを整えて、適度に運動していれば、病気になることはない。病気は「 健康じゃないことをしているよ 」という合図だ。病気のときには、病院へ行くのではなく、なんでこんな病気になったのか、自分の食生活や生活習慣を振り返ることにある。

ダイエットも然りである、毎日、体重計に乗って、体重が増えたり、減ったりする要因を考えてみれば、思い当たる節があるはずだ。それを改善したら、体重は落ちる、必然である。

「 病気のときに、病院行く 」という常識は、捉え方次第で、常識ではなくなる。

常識

「 親は敬うべきだ 」という常識
「 子どもは学校へ行く 」という常識
「 大人は仕事をする 」という常識
「 お金は価値がある 」という常識

私たちが「 絶対だ 」と信じている常識がある。

常識の根底が覆ったとき、私たちは何を信じていくのだろうか?

そもそも、私たちは、なぜそんな常識を、持ってしまっているのだろうか?

私の「 平和がいい 」という常識は、長崎という環境でつくられた。

もし、世界が平和であったなら、長崎に原爆が落とされなかったら、私は「 平和がいい 」という常識を持ち合わせていないだろう。

原爆が落とされていなかったら、そもそも、私は、存在しないのだ。

原爆という悲劇があった上で、歴史が流れて、私が生まれた。

原爆、戦争という前提がなければ、私は、存在していないのだ。

戦争反対とは、自分自身の存在のアンチテーゼである。

平和信仰は、ある意味での自己否定である。

常識を突き詰めたら、自己否定へと行き着いた。

自己肯定のためには、常識を否定するしかない。

常識なんてものは、そもそも存在しないのだ。
それは、社会通念でしかない。
それは、固定観念でしかない。
それは、価値観でしかない。
それは、主観でしかない。

それは、自分の勝手な思い込みなのだ。

常識の肯定は、自己否定になる。

常識の肯定の先は死である。
常識の否定に先に生がある。

常識が、私たちを拘束している。
私たちは、常識という呪縛の中に在る。
私たちは、自分が勝手に妄想した常識によって、自由を奪われている。

私たちは、もっと、自由に生きていい。

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