常識という空気に支配された社会

社会

常識という空気に支配された社会

2021/12/3

資本論

そこに価値が内在しているからだ。

マルクスは「商品は、そこに人間の労働が内在しているから、価値がある」と言った。人間の労働とは、時間である。時間とは、寿命である。商品には、人間の命である時間が内在しているから、価値がある。

プレゼント

プレゼントが嬉しいのは、そこに相手の時間が内在しているからだ。相手が自分のことを想ってくれて、考えてくれてた時間に対して、自分のために使ってくれた時間に対して「嬉しい」とおもうのだ。

相手の時間が内在していないならば、プレゼントの価値はない。

例えば、子どもが描いてくれた絵は、子どもが自分のことを想って描いてくれたから、そこに気持ちと時間がのっているから嬉しい。

例えば、ブランド品をプレゼントされた女性は、それが「相手がネットでワンクリックで買った」としても、そこに、内在している、お金、即ち、ブランド品を買うために相手が労働した時間に対して、愛を感じる。そして、自分は、「相手がブランド品を買ってくれるほど愛されている存在なのだ」と確認することが、嬉しい。

例えば、仕事で着る用に、「少しカチッとしたコートが欲しい」としたとき、どんな形状のどんなブランドのどんな色にするのか、選択肢は、広域である。自分で服を選ぶのが好きな人に、コートをプレゼントしても、満足いく結果にはならないだろう。逆に、服にそこまで、こだわりがない人からしたら、コートのプレゼントは、嬉しいし、ありがたい。別に何でもいいわけじゃないからこそ、選ぶためには、「探して比較して決断して」という手順が必要になるからこそ、そこにプレゼントの商品としてだけでない価値が付加される。

人の興味は多彩だ。

  • 自分のこだわりが強くない分野で、必要なものを選んでくれたときに、プレゼントの価値が増す。
  • 自分があまり興味ない分野で、あったら嬉しいものを選んでくれたときに、プレゼントの価値が増す。

プレゼント品だけでない、自分の時間や気持ちといった付加価値に、相手が喜ぶ。

商品はそれ自体に価値があるのではなく、そこに、人の労働や思考や気持ちといった時間が内在しているから価値がある。

価値観

価値の強度や尺度が異なると、私たちは「価値観が違う」と言う、似ていると「価値観が合う」と言う。そして、私たちは、無意識に、価値観が合う人たちと一緒に過ごしている。

即ち、価値観とは、人の時間である。人の時間の使い方である。自分の経験、自分の人生で過ごしてきた時間によって、行動が方向付けられて、価値観が育成されていく。

だから、一緒に過ごす時間が長ければ、価値観は、似通っていく。家族は、一緒に過ごす時間が長いので、無意識の内に、各々が影響し合って、絵の具のように、価値観が混じり合っていく。

一方で、一緒に暮らす中で、価値観が混じり合わなくなることがある、離婚の原因の代表例は、価値観の不一致である。

子どもが独立して、親と離れて暮らせば、次第に、価値観が異なっていく。そして、それは、もう混じり合うことはない。親子だけど、一緒には暮らせない家族になってしまう。

私たちは、価値観で生きている。これまでの人生経験で培ってきた価値観が原動力となって、前に進む。そして、人々は、目に見えない価値観という概念によって、人と結び付き、また、人と離れていく定めだ。

音楽

価値観とは、モノゴトの視点である、モノゴトに対する捉え方である。

どんな音楽が好きかである。流行っている音楽だけがいいわけじゃない。流行っている音楽は、民主主義よろしく、多数決でしかない。

ロックが好きでも、ヒップホップが好きでも、JPOPが好きでも、KPOPが好きでも、クラシックが好きでも、それは、価値観という名の個性である。自分が好きじゃないジャンルの音楽をけなす人は少ない。人は、それぞれ、好きな音楽があっていい。私たちは、人それぞれに好きな音楽があることを知っているし、それを認めている。極めて狭い範囲でしかない音楽ジャンルも存在するだろう、日本にない音楽ジャンルも存在するだろう。でも、そうなんだと、私たちは自然に受け入れる。

個性というその人自身の性質について、否定する人がいる。価値観はモノの見方で視点のひとつに過ぎず、それは人それぞれに異なる個性で、音楽のジャンルなのだから、誰かに、どうのこうの言われる筋合いはない。私がロックが好きで、あなたはクラシックが好きなのね。そうなんだ。

社会には、個性を認めない人がいる、常識という言葉が好きな人達だ。
常識とは、自分の価値観に過ぎず、固定観念でしかない。

全員に共通するルール、常識なんて存在するわけがない。私たちは、全く同じ人間ではない。全員が、異なった人生を歩んできて、自分の個性があり、自分の価値観がある。それを、ひとまとりにして、常識とくくることはできない。

それでも、社会は、常識という空気に支配されているから、私たちは息苦しさを覚える。

口を覆っている何かのように。
「自由に生きたい」と言いたいけれど、口を覆わなければならない不自由を強制されている。
「ロックが好きだ」と叫べば、「口を覆え」と非難される。
ロックを歌うと「近付いて聞くな」とドヤされる。
ロックを五感で体感したいだけなのに、聴覚と視覚でしか体感できない二次元に閉じ込められる。

私たちは、身体に備わっている五感を通して、様々なことを体験することで、人生を過ごしている。身体の機能が衰えて停止してしまう状態を死と言う。五感を使って体験できなくなることが死である。

生きる

常識という空気が、この社会を死の世界へと変容させつつある。常識に包まれている人、死の世界の住人になった人が、氾濫している。その中で、違う空気が吸いたい、新しい空気が吸いたいと、生きたいと願う人がいる。

私たちは、死にたくないから、みんな生きている。

生きていることの定義は何?

  • 五感で体験すること。
  • 今を感じることで、いきいきと生きていることを体感すること。
  • 今を意識すること。
  • 過去でも未来でもない現在という時間軸の中で、今に集中することである。

ラーメン屋に行って、ラーメンを作っている音を聞きながら、ラーメンを見て、香りを嗅いで、箸を使ってラーメンを挟んで、ラーメンを味わって、食べる。美味しいと感じる。ラーメンが美味しいと感じる。ラーメンを食べることに、夢中になって、我を忘れて、ラーメンに集中して、他のことは頭の外へ行ってしまっている。五感を使って食欲を満たす。

私たちが、生きることを取り戻せるのはいつの日だろうか?
私たちは、いつまで、生きることを放棄し続けなければならなのか?
自由を失って、不自由になって初めて、生きることの自由さに気づく。

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