【本要約】「甘え」の構造
2022/5/19
甘えの着想
甘えるという言葉は、日本人の依頼心に対する肯定的な態度を暗示している。
初めてアメリカに行った時に受けた文化的衝撃によって「 何ものか 」が変化したことを自覚していた。
甘えという言葉は、英語には存在しない。
自分という言葉は、元来は欧米語の訳語である自我・自己が抽象名詞であるのに比して、具体的な意識をさす。「 自分がある 」「 自分がない 」「 自分がなかった 」などの表現が可能となる。
このような自分の意識は内心の甘えを前提としており、しかも甘えに対立するものとして現れてくる。
甘えの世界
甘えという語が日本語に特有なものでありながら、本来人間一般に共通な心理的現象を現わしている。この事実は、日本人にとってこの心理が非常に身近なものであることを示すとともに、日本の社会構造もまたこのような心理を許容するようにできあがっていることを示している。甘えは日本人の精神構造を理解するための鍵となるばかりでなく、日本の社会構造を理解するための鍵ともなる。
甘えの語彙
「 甘い 」という形容詞が、口にするものが甘いという以外に「 AはBに甘い 」という。人物の性質を表すために使われる。
事の真相を把握していないという意味で「 見方が甘い 」という。当人が何かに甘えている結果である。
「 甘んずる 」という言葉は、本当は甘えられる状態ではないが、甘えたつもりになる。
「 すねる 」「 ひがむ 」「 ひねくれる 」「 うらむ 」は、いずれも甘えられない心理に関係している。
「 すねる 」のは素直に甘えられないからそうなる。「 ふてくされる 」「 やけくそになる 」というのは「 すねる 」の結果、起きる現象である。
「 ひがむ 」のは自分が不当な取扱いを受けていると曲解することである。自分の甘えの当てがはずれたことに起因している。
「 ひねくれる 」のは甘えることをしないで却って相手に背を向ける。
甘えないように見えて、根本的な心の態度はやはり甘えである。
「 うらむ 」のは甘えが拒絶されたということで相手に敵意を向ける。
「 たのむ 」とは甘えさせてほしいということに他ならない。
「 とりいる 」とは、相手を甘えさせると見せて、実はこちらの甘えを実現することである。
「 こだわる 」人は人間関係の中で「 たのんだり 」「 とりいったり 」することが容易にできない人である。本人にも甘えたい気持ちは人一倍あるのだが「 相手に受け容れられないのではないか 」という恐怖があって、その気持を素直に表現できない。
「 気がね 」とは、相手がこちらの甘えをすんなりと受け容れてくれるかどうかわからないという不安がある。
「 わだかまり 」とは、表面は何気ない風を装っていながら、内心は相手に対するうらみを持っている。
「 てれる 」とは、他人の前で甘えを出すことを恥ずかしく感ずる。
「 すまない 」は謝罪と感謝という一見異なる状況に際して使われる。
相手に迷惑をかけたことに対するわびの気持ちが強く現われている。 そして、そのことこそ実は相手の親切を謝するにも「 すまない 」という言葉が用いられる理由なのである。すなわち親切な行為を
することがその行為の主にとって若干の負担となったであろうことを察するから「 すまない 」というのであって、親切に対して返礼せねばならないことを直ちに意識するためではない。もっとも日本人が、互いに助けあうことと金銭の授受という二つの異った状況に対し、同じような心理的構えを見せがちである。
日本人が親切の行為に対し単純に感謝するのでは足れりとせず、 相手の迷惑を想像して詫びねばならぬか?
私が、詫びないと、相手が非礼と取って「 相手の好意を失いはしないか 」と恐れるためだ。相手の好意を失いたくないので、 そして「 今後も末永く甘えさせて欲しい 」と思うので、日本人は「 すまない 」という。
義理と人情について
- 人情は甘えに密接な関係がある。
- 人情の中心的な感情は甘えである。
- 人情と義理は単に対立概念ではなく、二つの間に有機的な関係がある。
- 親子や同胞の間柄と違って、人為的に人情が持ちこまれた関係が義理である。
義理の関係といわれるものは、親戚付き合いにせよ、師弟の間にせよ、友人付き合いにせよ、はたまた隣近所の付き合いにせよ、すべてそこで人情を経験することが公認されている場所である。
義理はいわば器で、その中身は人情である。親子の間柄でも、親子の情よりも関係自体が重視される時は、義理として意識される。
恩と義理
恩という概念と義理との関連について「 一宿一飯の恩 」というように、恩というのは人から情け ( 人情 ) を受けることを意味する。恩は義理が成立する契機となるものである。
- 恩という場合は恩恵を受けることによって一種の心理的負債が生ずることをいう。
- 義理という場合は恩を契機として相互扶助の関係が成立する。
普通に義理人情の葛藤といわれるものは、恩を受けた何人かの相手方同士の間に対立関係が存するために、一方に義理を尽くすことが他方に義理を欠くことになる場合である。この際当人にとっては相手方すべての好意をひきとめておくにこしたことはないが、それが困難もしくは不可能となるので葛藤が生ずるのである。この葛藤の本質は、相手方の一方を取り他方を棄てるということにあるのではなく、むしろ自分の意志に反してそのような選択を強いられるということにある。葛藤の原動力は「 好意をひきとめたい 」という欲望なのである。そしてこれはまさに甘えに他ならない。
義理の関係において「 すまない 」という感情が最も多く経験される。
義理も人情も甘えに深く根ざしている。
- 人情
甘えを肯定することであり、相手の甘えを許諾 - 義理
甘えによって結ばれた人間関係の維持
甘えという言葉を依存性という言葉におきかえると、人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛るということもできる。
義理人情が支配的なモラルであった日本の社会は甘えの漫した世界であった。
- 甘えが自然に発生する親子の間柄は人情の世界
- 甘えを持ち込むことが許される関係は義理の世界
- 人情も義理も及ばない無縁の世界は他人の住む世界
遠慮の意味は、気がねやこだわりと同義なので、相手の好意に甘え過ぎてはいけないと遠慮する。
身内に無遠慮なのは甘えのためであるが、他人に対する無遠慮は甘えの結果ではない。身内に対しては甘えていて隔てがないので無遠慮であるのに対し、他人には隔てはあるが、意識する必要がないので無遠慮である。
身内にベタベタ甘える者に限って、他人に対しては傍若無人・冷酷無比の態度に出ることが多いように観察される。日頃、甘えている人に、甘えられないとなると、人を食った態度に出る。
日本人の大半にとって、このように内と外によって態度を変えることは当然と考えられているので、身内には、わがままをいい、外では自制することを誰しも偽善とか矛盾とは考えない。
日本には集団から独立した個人の自由が確立されていないばかりでなく、個人や個々の集団を超越するパブリックの精神も至って乏しい。
内と外という風に日本人が生活空間を区別し、それぞれにおいて異なる行動の規範を用いる。
日本人がいわば理性的に行動するのは遠慮のある場合であるが、しかし、この遠慮を働かせねばならないサークルも、遠慮を要しない外部の世界に対しては内と意識されるのであって、本当の意味ではパブリックではない。大体、内と外という分け方が個人的なものである。しかもそれが社会的に容認されているのであるから、パブリックの精神が育つわけはない。内外の区別ははっきりしているが、公私の区別ははっきりしないから、公私混同が起き、公共物が私物化される。
おおやけは、元々は皇室を意味する。
好奇心
日本人は、昔から好奇心が旺盛で、外の動きに敏感で、少しでも己より優れていると見れば、直ちに外に取り入り取り込もうとする。
罪悪感
西洋人が罪悪感はもっぱら個人の内部の問題であると考えがちなのに対し、日本人にそのような考えがないことが原因しているのであろう。
日本人の罪悪感は、自分の属する集団を裏切ることになるのではないかという自覚において、最も尖鋭にあらわれることが特徴的である。
例えば、相手が自分に一番近い身内、親の場合は、あまり罪が自覚されないが、これは両者が密着していて、どんなに裏切っても許されるという甘えがあるからである。しかし「 死んで知る親の恩 」というように、親の死後、これまで抑圧されていた罪の意識が自覚されることはある。
一般的にいえば、日本人は裏切りが関係の断絶に導きやすい義理的な関係の中で最も頻繁に罪悪感を経験する。
集団を裏切ることが罪であるように、集団から指を刺されることが恥ずべきことであり不名誉なことである。
言語と心理
エルンスト・カッシーラ
- すべての言語がそれ自体特有なパターン体系である。
- 言語化は、人間が意思を伝達するだけでなく、論理的思考にも用いられる。
- 文化的に定められた言語によって、意識を形作る。
甘えの語が日本語に存し欧米語にそれに相当するものがないという事実は、日本人が甘えの感情に敏感でそれを大切にするのに対して、欧米人がそうでないことを物語っている。
甘えとは、乳児の精神がある程度発達して、母親と自分とは別の存在であることを知覚した後に、母親を求めることを指していう言葉である。
甘えとは、人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚とする。
止揚:ヘーゲル弁証法で、低い次元で矛盾対立する二つの概念や事物を、いっそう高次の段階に高めて、新しい調和と秩序のもとに統一すること。
甘えと自由
日本では、自由とは、甘える自由であり、わがままを意味した。わがままは、消極的意味に捉えられるが、以前は、自由も消極的意味として捉えられていた。西洋における自由 ( freedom liberty ) は、人間の尊厳を表現しており、消極的意味ではない。自由という日本語は、良くも悪くも持ち合わせた概念となった。
西洋では、自由が人間の権利や尊厳といった観念と結びつき、ポジティブな意味を持つようになった。西洋的自由は、個人の集団に対する優位性の根拠ともなる。
これは、集団が個人の思い通りにならないから、自由にしたいのであり、その意味では、個人は集団を超越できないでいる。日本的自由は、個人の集団に対する優位性の根拠とは、なりえない。
日本的自由が甘えから発するなら、甘えは他を欲することであり、個人を集団に依存させることはあっても、集団から真の意味で独立させることはあり得ない。
個人の自由を強調する西洋では、甘えに相当する依存的感情が、存在しない。西洋的自由は、甘えの否定の上に成り立っている。
明治以後の日本人が新たに西洋的自由に接したことは衝撃的な出来事であった。この時、もし日本人が真に個人の自由を体得できていたならば、これまで自分たちを悩ましていた義理人情の葛藤を超越できたかもしれない。
自由を得られないため、新たな葛藤に悩まねばならなかった。
皮肉なことに、西洋的自由のつもりで求めていたものは、実は日本的自由ではなかったかと考えられる。
自由の意味についての混乱が生じている。
個人の自由の意識に目覚めた日本人は、目覚めない人間よりも過敏になる。
個人の自由が身に付いた西洋人は、日本人のような過敏な反応を示さない。
西洋人の感謝の表現は、後腐れがない。
夫婦、親子では、感謝を表現しない無遠慮な間柄では、相互が独立した関係にない。「 すまない 」という感情を表現することなく、個人の中に内包している。独立していない間柄である以上、独立した個人は存在しない。身内が、一体となっている。個人が独立していない以上は、自由も存在しない。
遠慮のある他人の好意に対しては負い目を感じ、一体感を持てる身内の好意に対しては平気でいられるという日本人の習性は私たちにとって至極当然のことに思われる。このような習性を持つ日本人の社会では厳密な意味で個人の自由独立はない。
もし本質的に人間を超える存在があって、その存在から個人が他ならぬ自由を賜 ( たまもの ) として与えられるとしたら、いくら感謝しても、自由が侵害されるということはなくなる。
それこそキリスト教の最も中心的なメッセージであった。
キリスト教思想家パウロ
パウロはもともと社会的差別に発した自由人と奴隷という概念を拡大深化して、キリストによる自由と罪の奴隷という人間の二つのあり方を説いたのである。
キリストによる自由というように、人間が自由であり得るのは、キリスト自身が全く自由であったからである。彼はあまりにも自由であったために、同胞のユダヤ人に殺された。しかもその死に対してさえ、彼は自由を克ち取ったと信じられているのである。
ルターは、キリストによる自由を主張したが「 中世を政治的に支配したローマ教会に反抗した 」という自分の行為自体によって、政治的圧制に対する個人の自由という意味の方が時を経るにしたがって重きをなすに至った。
キリストによる自由の名の下に、ギリシ以来の政治的意味での自由人の意識が再現した。客観的にそう解釈できるということであって、ルター自身にこの意識はなかった。ルターは人間の自由意志を否定さえしている。
西洋近世の初期、個人の自由ないし政治的自由の観念が人々に強く意識されるようになったのは、中世の封建的政治体制がいろいろな原因によって崩れはじめたことが関係していた。当時、ルター以外にも多くの自由の選手が輩出したのであり、ルターはむしろ意識的には中世人であったとして、自由の選手から除外されることもある。
しかし、ルター以外の場合にも、新しいヨーロッパの自由人の意識は、古代ギリシャの自由人の自覚とは異って、何等かのキリスト教的衣をまとっていた。このキリスト教的衣はその後時代を経るに従い次第に稀薄となり、遂には近代の世俗的個人主義・自由主義へと変貌する。主義といわれるように、イデオロギー的なもの、信仰を含むものであった。
古代ギリシャの自由人は盲目的に本人が自由であることを知っていたが、近代のヨーロッパ人は個人の自由を信仰箇条のように信じた。
現代の西洋人は「 自由が空虚なスローガンに過ぎなかったのではないか?」と悩みはじめている。
資本主義社会機構が必然的に人間を疎外することを説いたマルクスの鋭い分析も、キリスト教が奴隷道徳であると宣言したニーチェも、また、無意識による精神生活の支配を説いたフロイドの精神分析も、すべてこの点について現代西洋人の眼を覚まさせるものであった。
もっともサルトルのごとく、すべての上部構造が崩壊しつつある現代社会において、人間の自由だけは唯一絶対のものとして、それにしがみつこうとする者がいないわけではない。
freedom を自由と訳したのは、適訳でないように見えて、適訳であったのである。なぜなら、西洋でも自由は信仰の世界の外には存在しなかったからである。
気の概念
気は感情・性格や、行動を意味する日本語に現れる。
気は主として人間の感情面の働きを示すように思われるが、「 気が利く 」「 気が付く 」「 気を失う 」など、単に感情面の働きではなく、判断力や意志また意識の働きを指すとみられる場合もある。また「 気が咎める 」という場合は、感情といっても特殊な場合で、良心が咎めることを意味する。
理性・感情・意識・意志・良心等の言葉は元来欧米語の翻訳語であるが、これらを一括りにして気というところに日本語の気の概念の特殊性がある。
そこで以下に、気を欧米語の概念との比較においてではなく、元来、日本語の中にあって精神的機能をあらわす気以外の言葉と比較する。
気以外の日本語で精神的機能を現わすものとしては「 あたま 」 「 こころ 」「 はら 」「 顔 」が考えられる。
「 あたま 」は物を考える力ないしそれによって考えるところのものを意味するが、そこから転じて「 あたまが下がる 」「 あたま ( 頭 ) が高い 」という時のように、対人関係における態度を示すこともある。これは単に人間の動きを描写したように見えるが、実際は対人的態度の比喩と解されるのであって、前者は相手の「 あたま 」に敬意を表すること、後者は敬意を表さないことを意味する。
「 こころ 」であるが、これは物に感ずる力ないし、それによって感ずるところのものを意味する。これは気の意味するところに非常に近いので「 気おくれ 」「 心おくれ 」、「 気くばり 」「 心くばり 」、「 気立て 」「 心立て 」などのように、両者をほとんど同じ意味に使うこともあるほどである。心は気と比較してもっと幅のある、したがって内容を持った概念である。「 心が深い、浅い 」また「 心の奥 」ということはあるが、気についてはそのようなことをいうことがない。
「 はら 」の意味を考えてみよう。 体の「 腹 」は、元来、物がたまるところである。それと同じようにこの言葉が精神的な意味に使われる場合は、経験の蓄積、または経験の集大成としての自己、したがって容易にその中を人の眼に見せないものを指して「 はら 」というように思われる。「 はらができてる 」「 はらを探る 」「 はらを割る 」「 はらが見えすいている 」「 はらが立つ 」 「 はら黒い 」といった表現は、その意味を表している。
「 顔 」は英語の person の原義と同じであるが、欧米ではこの語が深い意味を持つに至ったのに比し、日本語では「 顔 」が文字通り人に見せる表面の意味しか持たないことが大変興味深い。
そこで最後に気の概念である。気は、その用法から察するに、瞬間瞬間における精神の動きを指す。すなわち「 あたま 」「 こころ 」「 はら 」がそれぞれ、精神の異なる働きの主体を指している。「 あたま 」「 こころ 」「 はら 」は、現象の背後にあるものを意味するのに対し、気は現象の働きそのものを指す。
「 気は心 」で、心の働きが一番気の現象として知覚しやすい。
気が、精神活動の記述に際して主語として登場する。気の動態を観察すれば、精神活動に内在する原則が何であるかをいいあてることができる。
例えば、
「 どうも気が沈んで仕方がない 」「 気が向いたら出かけよう 」「 あいつは気に入った 」
などのいい方を見れば、この点は明らかでる。人は違っても、それぞれにおいて、働く気は同じ原則に従っているように見える。もちろん同じ原則といっても、人が違えば気が合わないということが起る。しかし、まさに気が合わないという事実の中に、それぞれの気が求めているものは同じであることが暗示されている。
いずれの気も、本来、「 己に合うものを求めている 」といえるからで、それ故に「 気が合わない 」ということが不快なこととして意識される。気は、常に快楽志向的である。
気ままとは気の欲するままということで、気が満足を求めるものであることが前提されている。気ままは、通常わがままと等置されるが、微妙なニュアンスの差がある。
わがままといえば、通常、非難する意味が含まれているが、気ままは必ずしも常にそうとは限らない。また「 わがままを通す 」とはいうが「 気ままを通す 」とはいわない。
甘えは本質的に全く対象依存的であり、主客合一を願う動きである。甘えをむき出しにしたわがままは、他者に依存すると同時に他者を支配しようとする。
- 甘えを気の動きとして捉えるならば、客観視することができる。
- 主体の立場を確保することができる。
- 他者との距離を維持することができる。
甘えの世界である日本の社会で、特殊な気の概念が発達した。
「 気の病 」「 気ちがい 」の概念について
「 気の病 」とは気で気を病むことであり、気の快楽志向性が妨げられ、気がままならぬ状態である。気の働きには主観的自由の意識が伴うが「 気の病 」の場合には、この意識が欠落する。
「 気ちがい 」とは気の快楽志向性そのものに狂いが生じた場合である。要するに気が変になり、時に気が全くなくなったと見られることである。
「 気の病 」と「 気ちがい 」は、面白いことに、それぞれ、元来、欧米語の翻訳である「 神経症 」と「 精神病 」に相当する。しかもこれら翻訳語よりも、そして、またもとの欧米語よりも、はるかによくこれら精神障害の本質を表している。
甘えの再考
甘えは、一義的には、感情であり、感情は欲求的性格を持ち、その根底に本能的なモノが存在する。
「 甘え 」が本能的なものに根ざしているとすれば、それはすべての人間に平等に見られて然るべきだ。西洋に「 甘え 」という言葉がなく、日本人に特に「 甘え 」が発達しているのは、日本では依存的な人間関係が社会的規範の中に取り入れられているからだ。
西洋では、甘えが甘えとして自覚されなかった社会である。

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