【本要約】人間を創る人間学
2021/12/1
人間学
国を納め身を修めるには教育・学問が何より大切だ。教学は経学である。
- 経学は、私たちの信念を養い、日常生活の道しるべとなる学問である。
- 経学は、時代・環境・状況が、どのように変わろうとも、普遍の哲理があり、それを学ぶ。
モノゴトの本質・真理は仁・慈悲・愛である。
釈迦 : 仏 … 慈悲
キリスト : 神 … 愛
天・仏・神は、すべて同じ一人の先生である。

人間は万物の霊長として、徳性・知能・技能を持っている。
- モノゴトには、根本的な本筋である本末がある。徳性が本 ( もと ) であり、知能・技能が末である。
- 本にあたる徳性を養い、併せて、末となる知能・技能を育てていくことで、人間の成長が促される。
宗教の宗という字は、本筋という意味である。宗教は、人間の本筋である。
人間は社会人として、道徳・習慣・知識・技術を持っている。道徳・習慣が本 ( もと ) であり、知識・技術が末である。道徳・習慣を修めていく学問が人間学である。人間学は、小学・大学・中学がある。
小学
小学とは、小人の学問で、小人とは、一般人である。小学は、常識である。小学校は常識を身に付ける学校である。
小学は、修己修身 = 自己自身を修める教えである。修身は、道徳のことである。
修身は、小学校の基本になっていた科目であったが、戦後の占領政策による教育改革で、修身科は廃止された。国史科と、地理科も廃止され、社会科が新設された。自己自身を修める学科がなくなってしまった結果、損得を優先される社会が誕生した。
大学
大学は、大人 ( たいじん ) の学問で、大人とは、他に良い影響を及ぼす人である。
影響力には善と悪がある。
- 悪の影響は強く、悪人の行為は、社会全般に大きな影響を及ぼす。
- 善の影響力は非常に尊いけれども、影響力は、ごくわずかである。
大学は、他人・社会に良い影響を与えて、人を治め、リードしていく教えである。
中学
中核は、中人 ( ちゅうじん ) の学問で、中とは2つの意味がある。
- 「結ぶ」という意味があり、同質のものを結び合わせることを混合といい、異質のものを結び合わせることを化合 = 化成という。
結び合わせて新しいものを形成する。 - 「当たる」という意味があり、良い所に当たることを的中といい、良い時に当たることを時中という。
良い所と良い時を見極めて判断する。
中学は、人の良い所、状況が良い時を見極めて、新しいものを形成する教えである。
四書
「言葉で、表現ができる」ということは、まだ浅い。
民族の発祥以来、長年に渡って受け継いできた心の根底にある思想を、言葉で表現するのは非常に難しい。嬉しいことを「嬉しい」という言葉だけでは表現しきれない。悲しみも同じだ。
- 小学には、小学という本があり、中国の思想家である朱子学の祖:朱子が四書をはじめとした古典を編纂して作った。
江戸時代は、小学が朱子学として民衆に広くて読まれた。 - 大学には、大学という本があり、孔子の弟子である曾子が、孔子の教えをまとめた本である。
- 中学には、中庸という本があり、孔子の孫で曾子の弟子である子思が、孔子の言葉をまとめた本である。
- 孟子が孔子の教えを元に作った本が、孟子である。
大学、中庸、その後に編集された小学を網羅した内容を持っているのが、論語である。
大学、中庸、論語、孟子を四書と言い、東洋人間学の基礎となった。
学べば学ぶほど自分の足りなさがわかってくる。
小学
小学は、学問としてだけでなく、実践と結びつくことによって、日本人は礼儀正しさを身に付けた。
基本
小学において、まず、人を教えるのには「洒掃」「応対」「進退」の大事なところである。そして、親を愛し、目上のものを敬い、先生を貴び、友を親しむ。そういう道を教えるということは、自分の身を修め、家を斉え、国を納め天下を平らかにするもととなる。
- 洒掃 ( = 掃除 )
掃除は人間を創る上において基礎的で、素直な心を育てる上においても大切である。
神道の神社では、掃除を貴び、仏教の禅宗でも掃除を修行の基本としている。
掃除をすることが即座禅である。 - 応対
応 … 呼ばれて返事をする
対 … 求めや問いかけに対して応える
応対の身近な例が挨拶である。
人と人とが会うときの、人間関係の1番基本をなすものが、応対である。 - 進退 ( = 座作進退 )
座ったり、立ったり、進んだり、退いたりという作法
作法では、まず、足元である。
履物をちゃんと脱ぐことが、脱いだ履物を整えることが、人間修行の第一歩である。
・靴は、左右も違えば、一人一人でサイズも違う、個人主義の代表作である。
・スリッパは他人が履くことを前提にしているので、履物を脱ぐときに、他人のことを考えながら、他人が履くのに便利なように脱いでおく。履き物一つで人間性が現れる。
「新しいことを身に付けよう」とすると抵抗を感じるのが人間である。自律的に行動するのは難しい。それを外から他人から、しつけられることで、繰り返されることで、気付けば習慣化されている。
- 親、目上、先生 … 権威
権威に従属する - 友
親友を大切にし、切磋琢磨せよ
環境
人間の教育には3つの場がある。
・学校
・社会
- 家庭は、親が先生なので親の背中で教育をする。
理屈ではなく、親が良い手本を子に示して教育していく。 - 学校は、理論、言葉によって教育する。
- 社会は、社会教育とは風化である。
風化とは、岩石が気温の変化によって自然に崩壊することである。
例えば、ある会社に入ったら、いつのまにか、気付かないうちに、自然に、個人の意思が風化していた。
生き方
人間は万物と同じように、すべて天の働きによって生を受けている。同時に、個々人には、その人だけが持つ使命というものが与えられている。
人間は顔が違うように、それぞれの個性というものを与えられて生まれてきた。肉体的には等しく、天の働きによって生命が与えられるが、同時に、それぞれが使命を与えられている尊い存在である。これを性という。
動物性とか、人間性とか、男性とか、女性とか、あるいは個性とかいう、皆それぞれの性にしたがって、その性を十分に発揮する。そのためには一つのルールがあり、そのルールのことを道という。
その道というのは、本来、天の道のことをいう。自分にもっとも適した道 = ルールを発見し、それを選んでいくことが大切である。しかし、この道を自分で発見することは容易なことではない。生涯を貫いてもそれが発見できない場合もある。しかし、先に道を知り、その道を通って、自らその性を発揮した人がいる。後から来る人のために「この道 ( ルール ) をたどれば必ずや目的に到達することができるであろう」と指し示しているのが、道標であり、それを教えという。
大学
大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民に親しむに在り。至善に止まるに在り。
明徳を明らかにするに在り。
徳という字は、もともと、正しい・真っ直ぐ・素直などの心を表す。「何に素直なのか」というと、天の道である。天には天の道 = ルールがある。人にも人の道がある。この天のルールを人間のルールにしたものを義という。義 = 天のルールを知るだけでなく、実践することで、初めて徳になる。
徳には2つの面がある。
- 目には見えないけれども内に在って大きな働きをしている徳:玄徳 … 例えば、木の根
- 外に現れる徳:明徳 … 例えば、木の幹・枝・葉・花・実
人間が成長していくには、木が成長するのと同じで、まず、根の部分である玄徳を養う。根がしっかりしているからこそ、目に見える部分も養われる。
老子は玄徳を、孔子は明徳を重視した。
明徳が、雲にかかって見えなくなることがある。明徳にとっての雲は、我である。明徳を明らかにするためには、我と欲を失くすことだ。明徳が明らかになると、仁が芽生える。仁は、二人の間に通じる心を現している。仁は、皇室の男子の名の一部でもある。
民に親しむに在り。
一般人と親しんで、一般人の心を知る。
至善に止まるに在り。
善悪は、自分を中心として、相手によって変化する。私たちは相対の善悪の社会で生きている。至善は、相対の世界を超えたものだ。
- 天には天のルールがあって、天道といい、地には地のルールがあって、理という。
これを合わせて、天道地理、道理という。 - 人には人のルールがあって、義という。
道理を人間の立場にすると、道義、人道、仁義となる。
人間の義は、個人の利を超えたものである。
- 自分には利益になるが、道理にかなってない。
- 自分の不利益になるが、道理にかなっている。
どちらを選択するか?
義 = 道理を取る人を大人、利を優先する人を小人という。
相対を超えた絶対なるものが、至善である、絶対とは、一の世界であり、相対は二の世界である。人間は二つの選択肢で迷うが、絶対は一つしないから迷わない。その絶対が、道理にかなっている至善である。
論語
人が知るには「学問をして知る学知」「悟って知る覚知」がある。
孔子は、誰からでも教えを受けた。良い人も悪い人も、賢い人も愚かな人も、「皆、自分の先生だ」と言って、貪欲に人から話しを聞いた。当時の書物は読み尽くしていた。
知識が多すぎると、統一ができず分裂することを、知識分裂症という。知識は統一を失うと雑識になってしまう。知識が統一すると見識になる。
見識も間違うことがある、見識は借り物であるからだ。他人の意見や本の内容から、結論を出すことには、自分の経験が付随しない。
キリストや釈迦は宗教家であるが、孔子は道徳家であって、宗教家ではないという説もある。
宗教家は、例え話しをして、人々にわかりやすく伝えていく。
孔子は「春秋時代の乱れゆく世の中において、よく収まった国の具現化、理想的な社会を形成することが、自分に与えられた使命である」と考えた。
易経
易経は、東洋思想の源泉である。
・変易
・不易
・易簡
易という字には「変わる」という意味がある。易では「森羅万象すべてのものは、一瞬として同一状態に止まってはいない。変化して止まらないもので、これが万物の状態である」とする。これを変易という。
- 古代ギリシャのヘラクレイトスは「万物は流転する」
- 仏教では「諸行無常」
その変化の中には必ずしも変わらないものがある。例えば、四季は、春夏秋冬と変化していくが、必ず、春→夏→秋→冬という順番で変化する。この世のすべては変化するが、その変化は、変わることのない法則性を持って変わっていく。これを不易という。
人間が変化の法則性を理解すれば、天下の事象も知りやすく、わかりやすくなる。これを易簡 ( いかん ) という。
中庸
物の存在を表す概念に、形而上と形而下がある。
- 形而下とは、私たちが五感で具体的に感じ取れる形のある物を指す。
- 形而上は、形を超越した目に見えない、耳に聞こえない精神的なものを指す。
形而上の存在は、形を為さないので、存在の認識には限界がある。
中庸を貫く精神は、誠である。誠とは、自分に対しても他人に対しても嘘偽りのない心、真心である。
コメント