言語化という美

湯浅

言語化という美

2022/5/31

私の戦略として不利であっても、私の美を譲れない。私の美は、世界を言語化することである。私は、私の見える世界や私のことを言語化できたときに、美しいと感じる。私の美意識に沿うならば、それが、私の戦略上、不利であったとしても、実行すべき事象である。

私の美という感覚は、人によっては、正義とか、法律とか、道徳とか、常識とか、ルールとか、仁義とか、なんかそんな1つのフレームを為す。ただの枠組みに過ぎない。写真家が見える景色の中で、どこを被写体として切り取るか、そのフレームである。風景のどこを切り取るかは、写真家次第なように、私の枠組みもまた、私独自の資質による。

そして、私は、私の美を貫くことを最優先すべきである。私の美は、私の感覚であり、私だけのものだ。他人にバカにされたとしても、私は、私の美を誇る。私の美が、損得で損にはたらくとしても、損を理由にしてはならない。私の美を貫く姿勢そのものも、また、私の美でもある。

私の美を損なったとしても、それは、誰にも、わからない。とがめられるどころが、気が付きもしない。だから、損得ならば、得するように動いても構わない。しかし、そこで損なうのは、私の美意識である。美意識のフレームのワンピースが欠ける。遠目にはわからないかもしれないが、欠けている。1ピースでも欠けたら、パズルの価値は、台無しだ。完璧に揃っていてこそ、パズルである。だから、私は、私の美意識を歪ませてはならない。

私の美を貫くことは、ときに、社会の理解を得られないかもしれない。未来のことは、見えないからだ。未来のための布石として、私の美はある。

① 私の未来は、私が創る。
② 私が創る未来が、他者に見えないのは当たり前だ。
③ 私が創る未来は、私にしか見えない。
④ 私の創る未来は、私の頭の中にしかない。
⑤ 私の創る未来は、想像の産物でしかない。
すべては想像から生まれた。想像だけが創造を許した。

キリストの美が、「 奴隷も、罪人も、売春婦も、人類は平等という思想 」が、世界を覆うまでに、2000年の時を要した。キリストの美は、当時の社会に受け入れられなかったから、処刑された。

スティーブ・ジョブスの美によって、iPhoneは誕生した。iPhoneという物質でさえ、最初は社会の理解を得られなかったのだ。

私の頭の中にしかない美が、どうして社会の理解を得られようか?

私の美は、私の知性によって彩られている。

私は、私の見える世界にフレームを与えたい、世界を私の言葉で切り抜きたい。

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