【本要約】社会契約論 〜 ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ

【本要約】社会契約論 〜 ホッブズ・ヒューム・ルソー・ロールズ

2022/3/19

社会契約論

【 社会契約論の思想 】
① 社会の起源を問う思想
② 社会の設立と維持のために「 必要最低限のルールは何か 」を問う思想
③ 人工物としての社会を誰が設立し、その社会がどうやって維持されているのかを問う思想

① 思想

① 社会の起源を問う思想

社会とは、人々が集まり、共同で生活する場である。

社会とは、なぜ生まれたのか?

原理として考えたなら「 社会はこんなふうに生まれたはずだ 」と説明する。

仮説である。

しかし、
論理的なやり方で、社会の起源を明らかにするのは、効果がある。
「 現代社会が論理的に納得できるかどうか 」を考えるきっかけとなる。

ある社会が実際にどういう経緯でできたかは、別次元で、社会の原理的な成り立ちについて考えることで、現代社会を判断するひとつの基準となる。

② 思想

② 社会の設立と維持のために「 必要最低限のルールは何か 」を問う思想
社会が社会であるためには、秩序やルールが必要だ。

ルールがなければ、人は、各々の主張を始めて争いになってしまい、社会は崩壊してしまう。

■ルールの発生

(1) 自然に生まれる

人間同士が一生にいれば、共通するルールが自ずと生まれる。

  • 人は生まれたときから社会にいるのだから、誰だって、そこで通用しているルールに従うのが自然である。
  • 古くからあるルールは、伝統や慣習として浸透しているのだから、それ以上、起源を詮索すること自体がナンセンスである。
  • 神が人間世界に秩序を与えた。

(2) 人工物である

社会契約論である。

  1. 自然や歴史や神が秩序を与えてくれるなら、秩序の正誤の判断に責任を持つ必要がなくなる。
  2. 秩序が人工物ならば、秩序に対して、人間が、責任を取らなければならない。
  3. 人間だけで社会を作り、運営していく仕組みを考えなければならない。
  4. そして、社会の正誤の判断基準も設けなければならない。

社会契約論は、人間社会が維持されるための最低限のルールとは何かを考える思想である。そして、そのルールの正誤の判断をするときの、人間が持つべき規範や手続きを考える思想である。

③ 思想

③ 人工物としての社会を誰が設立し、その社会がどうやって維持されているのかを問う思想

人間が秩序を作り維持するためには、社会のしっかりした構想が前提となる。

自然状態

約束だけが社会を作る。

社会が作られる以前の状態、自然状態からスタートとする。ここでは、自由で独立した人たち、共通の社会を、持たない人たちが出てくる。この人たちが互いに約束を交わす。そうすると自然状態から抜け出て、他の人との持続的な秩序の中に置かれる。この約束が社会契約である。

人は自由で独立した自然状態から、他者との継続的な約束が結ばれた社会状態へと移行する。

社会契約論の歴史

1945年の敗戦後、社会契約論は、民主主義国家の理念を体現する思想として用いられ、民主主義における国家権力への歯止めを示す思想と理解された。

個人にはいくつかの侵すことのできない権利があり、それは、他の個人の権利を侵害しない限り、国家によっても制限されることはない。

「 国家対個人 」という図式が設定され、国家権力をいかに限定し、国家の抑圧から守るかが、議論の焦点となった。

” 国家の目的を、個人の生命・自由・財産の擁護に限定する ” 社会契約論によって、国家権力の限界が定められるとされた。

戦前、国家は「 自然 」「 伝統 」「 万世一系 」といったイメージと結び付いていた。人が自由意志や合意によって、国家を作るものとは考えられていなかった。

社会契約論

社会契約
ホッブズ:信約
ロック:信託
ルソー:合意

社会契約を政治秩序と共同体を創造する、はじまりの瞬間における約束として捉える。

「 一般性 」という概念
・はじまりの瞬間と、その後の社会共同体の存続とをつなぐ。
・社会構成員の最初の約束と日常的に行われる社会的秩序の再検討との間をつなぐ。

秩序が成り立たなければ社会は成立せず、また、秩序を破棄する自由は常に人々に残されている。
社会契約論では、秩序を作り維持すること、秩序が悪ければ作り替えることが述べられている。

ジョン・ロックを取り上げない理由

ロックの契約論では、人が生まれ死に構成員自体が変わっても、具体的な場所で歴史的な実在として生き続ける集合体としての人民に当たるものが、不可欠の構成要素となっている。

一方で、ホッブズやルソーは、一回限りの契約を強調する。彼らは、契約以前の人間社会にあるべき集合性を認めない。

筆者は、一回限りの契約こそ社会契約論の源泉であるという思想であるから、ロックを論じることはできない。

ルソー

人は社会契約を結ぶことで政治社会に拘束される。

しかし、後から振り返ってみると、拘束以前の状態と同じように自由な自分を発見する。

人は自由になるために政治社会を作るのに、国家が与えてくれる保護や安全のために自由を犠牲にするといったことを容認する政治社会論など、意味を為さない。

社会契約は、ひとつの取引であるが「 何かと引き換えに何かを犠牲にする 」という取引であってはならない。人は何も失わず、新たな何かを得る。

社会契約

社会契約は、契約当事者の力と権利を合わせることで政治共同体を作る。

したがって、社会に譲渡される力と権利が大きければ大きいほど、共同体の力は強くなる。ここで完全かつ全面的な護渡を全員が行えば、最強い共同体ができることは明らかだ。共同体が強いこととそれが持続することとは、もちろん結びついている。

ただしそれは、構成員一人ひとりを共同体に結びつける絆が強い場合にかぎられる。自由意志に基づいて行動する個人が、進んで自己の全面譲渡に合意する、そんな政治社会だけが強い絆に結ばれている。

自発的に作られた共同体の方が、いやいや服従させられる場合より絆が強いというのはよく分かる。そしてこの全面譲渡は、自分も、他の人も、すべての人が等しい条件で、誰一人差別もされないことではじめて成り立つ。

ここに見られるのは一種の相互性である。自己権利と力を全面譲渡し、他の人もそうする。それによって、社会から得られる利益にすべての人が預かる。誰もえこひいきされず、誰も蔑まれない。つまりは 相互性に基づく平等 だ。これが保障されるときだけ、人は社会に入ることに同意する。

平等という条件は自由の問題とも関わっている。すべての人が、契約の前と後で同じように自由であるという条件だ。誰にとっても等しく自由が保障されていることが、みなが共同体への参加に納得していることにつながり、それが共同体の持続を生むからだ。

つまり、相互性に基づく平等と、以前と同じような自由が、全員に保障されることが必要なのだ。

  • 自分を完全に譲渡することが自由であるということは「 各人はすべての人に自分を与えるから、誰にも自分を与えないことになる 」からだ。
  • 共同体に自己を完全に譲渡することが、誰にも自分を与えないこと、すなわち自由なままであることとつながる。
  • 各構成員は自分に対する権利を他者に譲り渡すが、それと同じ権利を他者から受け取らないような構成員は誰もいないのだから、人は失うすべてのものと等価のものを手に入れる。
得るものが失うものと等価だから、相互性としての平等が成り立つ。

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