本の虫
2022/6/1
私は知的じゃないから、知的なりたくて、勉強している。成功している人、尊敬できる人は、みんな本の虫だ。
テレビのムシで成功した人はいないが、成功した人はみな本の虫だ。本は自分では体験できないような知識が詰まっている。テレビみたいに、ただの娯楽ではない。本は、頭を使う、思考を要する、読解力が必要となる。新しい知識を詰め込むだけでなく、事実と価値観を見極める判断力も必要となる。そして、自分の状況や自分の目的に対して適合するように、アレンジする必要がある。
本とは、筆者とのバトルである。
数時間、時には何十時間も、筆者とタイマンで議論を交わすのだ。そうやって、議論を通して得た知識だからこそ、実践力を伴う。本は知性へとアクセスし、目に見えない武器となる。だから、傍目にはパワーアップしているかわからない。
見た目でわかる武器、剣や鎧ならばすぐにパワーアップしているのがわかる。そういったものはもういいんだ。服や時計や車といった持ち物で着飾るのはもうやめた。
私は、私の本質で、勝負だ。
健康的に鍛えた肉体と、培った知性という、裸の自分で勝負する。
何もない、何も持たない、すべてを奪い去られても、殺されない限りは、私は、肉体と知性は残る。それこそ、裸一貫から、また勝負できる。体の筋肉と頭の筋肉を鍛えるのだ。
私は知的じゃないから、知的なりたくて、勉強している。私は、全然、社会のことがわかっていない。勉強すればするほど、自分の無知に悲しくなる。こんなことも知らなくて、どうやって生きてきたのか不思議に思う。無知に気付かなければ無知のまま生きられてたのに、気付いてしまったら、しょうがいない、それもまた運命だ。無知の範囲が少しでも少なくなるように生きたい。
「 知的だ 」と言われた、知的じゃないから勉強しているのに。
確かに昔と比べると、知的にはなった。少しだけ、世界の景色が変わったのはわかる。知識の底上げによって、早く本が読めるようになったし、理解力も上がったように感じる。知性は見た目が変わらないから、知性が上がった自覚がないから、わからない。
そうか、私は嬉しかったんだ。
「 知的だ 」と言われて嬉しかったんだ。
私が、今、磨いているのは知性だ。自分のことを知りたくて勉強しているのもあるのに、自分のことがには全然気付けなかったりする。
私は知的じゃないから、知的なりたくて、勉強している。
世の中の人は、なぜ勉強しないのか?
- 知らないことを知らないから。
- 知っていると思い込んでいるから。
- 知らないことを知っているけど、面倒だし、現状で満足だから。
私は知っていると思い込んでいる派だった。今は、知らないことを知っているから、知りたくて、知的好奇心の赴くまま、知を貪っている。知を貪り食って、言葉として吐き出す時が極上の気分だ。
「 なんでみんな勉強しないのか不思議だった 」こともあったし「 勉強しろよ 」と思うこともあった。でも、世の中には、勉強に気付けない人もいるし、勉強できない人もいることを知った。
私は「 私が当たり前にできていることは、他人にも当然できる 」と考えてしまう癖がある。みんな、私みたいな努力できる能力を、遺伝で授けれられていないのだ。私は、偶然、たまたま、努力できる能力を授かっただけだ。
私は、どうしても自分というフィルターを通して、世の中を見てしまう。客観的に把握したいのに、主観が強すぎる私は、自分の感情が前に出てしまう。世の中をうまく捉えられない。だから、私以外の視点が必要となる。私以外の膨大な視点を知識として蓄えることで、世の中を捉える。主観の強さは抑えられないのだから、知識の量という暴力で対抗する。
私は、世の中がどうなっているか知りたい。そうすることで、世の中を鏡として自分を知りたい。私は、世の中のことや、自分のことがわかったときに、私は何をおもい、何をするのか知りたい。
カール・ポパー
バーナード・マンデヴィル
知識が、私を正当化する。
知は美しい。

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