銅像になりたいという価値観

湯浅

2021/7/2

” 志村けんが銅像になった ” という情報に触れた。

「志村けんが銅像になったんだって、” 俺も銅像になりたい ” って思った」って話しをしたら、「絶対言うと思った」と返された。

その時は、そのまま流したが、” 銅像になった ” という情報に触れたら、” 銅像になりたい ” って思うことは、どうやら、人と違うらしい。

湯浅の思考は、人と違う。だから、近しい人は、湯浅の思考の特徴がわかるのかもしれない。

俺は、思う。逆に、何で、銅像になりたくないのか?

銅像になるって、スゴイじゃん、カッケーじゃん、なりたいじゃん。

ただ、コレには根本的な問題がある。

・銅像って、死ななきゃなれない。
・湯浅が銅像になりたいと思ってもなれない。
・俺が死んだ後、誰かが、湯浅って、スゲーよな、銅像にしようぜってならなきゃいけない。

よく、考えたら、自分が死んだ後の世界とか、どうでもよかった。だって、そのとき、俺、居ないじゃん。

【本要約】「死」とは何か 〜 まえがき&あとがき版
人は、どうしても死について考えたくない。死について考えると、不安と恐怖と心配に呑み込まれる。死を恐れるのは不適切な対応だ。死は、機械の故障と同じだ。死は、身体が壊れて動かなくなってしまうだけだ。

志村けんは、子という生き物は残せなかった。しかし、銅像という、生きた証は残した。

やっぱり、湯浅は、生きた証よりも、生き物を残したいかな。

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