忙しい1日の出来事
2022/2/11
学生以来仲良かった20年来の友達と久しぶりに会った、なぜか、私の祖父母の家で。久しぶりに会ったのに、話は盛り上がらなかった。私は、初対面の人みたいに、相手の目が見れなかった。特に、話すこともなくなったので、私から席を立った。多分、もう、会うことはない気がした。
その友達だけでなく、他の友達も含めて、その後に会った。他の友達がハッキリと言った。
「お前は、ヤンキーだと。バリバリのリーゼントをしたヤンキーだから、ヤバいやつにしか見えない。だから、みんな、関わりたくない。」
なるほど、腑に落ちた。
もちろん、実際に、私は、リーゼントをしたヤンキーではない。
でも、長い間、仕事をしていない社会のヤンキーである。
大人は仕事をするのが常識な社会で、仕事をしていない、何をしているのか、わからない私は、なるほど、十分なヤンキー。つまり、反学校的存在、大人だから、反社会的存在に見えるということだ。無職という存在に対する世間の目は、友人であっても、怖いと思うのか、なるほど。
とても、よくわかりやすい、納得した。
確かに、そんな私とは、話すことないのも頷ける。
自分のことは、客観的に見ることは、難しい、特に、私は苦手だ。自分が、一般的な人と違うことは、理解している。ただ、それが「 人からどう映るか?」は気にしたことがない。気にならないから、考えない、わからない。
社会のヤンキーとは、関わりたくないということか、よく理解できた。
前の仕事で関わった人たちと打合せをした。打合せは、目的があるので、会話に困ることはない。自分の経験から導かれる合理的な意見を述べる。打合せでの方向性の違いは、日常であり、それをお互い会話して、どう擦り合わせるかでしかない。私はデータを知っていて、データを触れるエンジニアだ、システム周りのことは、得意だ。結論にまでは至らなかったが、進捗はあった。私は、久しぶりにプログラムを作った。「 懐かしい 」と思いながら、「 意外と覚えているもんだな 」と、コードを書いた。
目が覚めた。
全部、夢だった。友人も、ヤンキーも、打合せも、プログラムも、夢だった。
昨日、呑んだ店では、学生時代の歌が流れていた。仕事の話しも少しした。それが、夢となったんだろう。
夢は不思議だ。夢は自分で意識して見るモノではない。夢は科学で捉えられない。夢は、夢占いという非科学な予想でしかない。科学的な予測ではない。
「 夢は脳が記憶整理の時に生み出した仮想現実である 」という仮説がある。仮想現実だからといって、すべてが自由ではなく、むしろ、しっかりと現実的である。ある意味においては、現実を自分の意識よりも客観的に映した世界である。
私は友人に会いたいし、仕事をしたいというのが、本音なんだろう。
仕事を始める頃なのかもしれない。

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