資本主義社会は永遠に幸福が満たされない世界

資本主義

「苦しかったときの話をしようか」からの思考

【本要約】苦しかったときの話をしようか
成長を望む限り、不安はなくならない。 でも、不安には慣れることができるようになる。 不安は挑戦している証拠だ。 自己保存の本能によって、チャレンジによって起こる変化が大きいほど不安は大きくなる。

2021/9/19

資本主義の本質は、人間の欲である。
「より便利により快適な暮らしがしたい」という欲である。
〜「苦しかったときの話をしようか」からの引用

文明の発達が、私たちを便利に快適にしてきた。

外でスポーツをして遊んでいた子どもたちは、外でゲームをして画面の中でスポーツをして遊んでいる。時代の流れと言えばそうかもしれないが、違和感があるのは、俺だけじゃないはずだ。

いつでもどこでも一流の先生の授業をWebを通して受けれるようになった一方で、鳴り止まないスマホからの通知に集中力を乱される。授業の質は上がっても、集中はコマ切れになった。

インターネットの発達によって、いつでもどこでも、誰とでもつながれるようになって、便利になった。

でも、そこには、快適さはあるのだろうか?

いつでも、メールが来るようになって、どこでも、仕事ができるようになった。

いつでもどこでもつながれるということは、実際には、いつでもどこでもつながっていない、顔を合わせることが減った。人間関係は希薄化した。

家に風呂がない時代は、銭湯が交流の場だった。家に風呂を作るようになって、銭湯という交流の場所を失った。

アダムスミスの分業化が、細部まで進んだ結果、組織に所属しないギグワークを生み出した。そこでは、個人のスキルだけが重要視される。スキルを習う先輩もいない、スキルを教える後輩もいない。

私たちは、社会性の生き物だ。社会の中で、生まれ育ち成長してきた。人間の中で、人間関係を育み、人間を知り、人間を学び、生きてきた。分業化で確かに便利になった。インターネットで確かに快適になった。それは否定できない。

でも、文明の発達は、本当に、私たちの生活をより良いものにしたのだろうか?

かといって、「スマホを手放せるか?」という問いに「イエス」と言える人はいないだろう。

スマホでできないことを探すのが難しいくらいには、スマホは私たちの生活の一部となっているからだ。便利を知ったら、不便に戻るのは難しい。できなくはないが、相当に難しい。ほとんど不可逆の世界である。不可逆の世界が、資本主義社会である。

私たちは、資本主義社会の中で、利便性を追求し続ける。人間は、快適さを求める本能があるので、永遠に快適さを求め続けるだろう。資本主義が続く限りは、イノベーションが起こり、私たちの生活は、ますます、便利に快適になっていくのだろう。

それはいいことだろうか?
本当に?
まだ何かを便利にしたい?
もっと快適が欲しい?

本能に従う限り、欲求は留まることを知らない。
しかし、果たして、その先に、幸福はあるのだろうか?

私たちが利便性や快適さを求めるのは、幸福になるためではなかったのか?

私たちが利便性や快適さを求める続けるということは、永遠に幸福になれないということだ。

「足るを知る」という言葉がある。

今のままでも、充分、便利で快適である。
満足である。
満ち足りている。
気付くことである。

「足るを知る」という言葉には、続きがある。
「足るを知るものは富む」である。

現状に満足した人だけが、この資本主義社会のレールから降りることができる。
資本主義社会のゴールは、大富豪じゃない、大富豪でさえ、さらなる富を求めるのだから。
富は金じゃない。
未来の大金じゃない。
現在である。
現状の満足である。
「満足である」と気付いた今、ここに、幸福がある。

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