習慣という鎖
2021/12/26
それは、小さな頃からの習慣であるから、疑問を持たない。
習慣とは、これほどまでに、人を行動に駆り立てるエネルギーを持つ。
- 私たちは、習慣でできていると言っても、過言ではない。
- 私たちは、習慣の生き物である。
- 私たちは、習慣によって、食事をして、仕事をして、眠る。
- 私たちは、毎日、習慣を繰り返しているに過ぎない。
習慣化された日常は、記憶を経ることなく、どんどんと消化されていく。習慣の中に記憶は残らない。
毎日の歯磨きや風呂に意識を向けることはできない、習慣でこなしていてる。いちいち、前歯、次に奥歯、裏側なんて意識しながら歯を磨いていない、無意識に磨いている。風呂で体も無意識に洗っている。昨日の歯磨きと今日の歯磨きの差はない。1週間前の歯磨きのことなんて思い出せない。
無意識は記憶に残らない、習慣化されたことは記憶に残らない。
みんな、別に記憶を作って残すために生きているわけじゃない。みんな、ただ、何となく毎日を生きているだけだ。みんな、ただ、習慣を繰り返しているだけだ。習慣を繰り返して、忘れながら日々を生きている。習慣の中で、毎日忘れながら生きている。
昨日と今日は違う、確かに違う。昨日の私と今日の私は違う。だけど、昨日と今日の境界線はない。昨日の習慣と、今日の習慣は同じ。一年後の今日は、昨日と今日もなくて、それどころか、今週もなくて、今月もない。そんな世界で、私たちは生きている。習慣に覆われた生活は、楽だ。習慣は思考を要しないから、何も考える必要はない。
- 仕事で考えている?
- プライベートで悩んでいる?
- 親や子ども、夫婦、恋人、相手に対して悩んでいる?
それは、習慣の延長線上に存在する世界だ。だから、来月には、すべてキレイさっぱりに忘れている、それは、悩みではない、暇つぶしだ。暇だから、そうやって、他人の気持ちなど、自分が考えてもわからないこと、自分がコントロールできないこと、そんなことを考えてしまう。
自分の行動を変えること、未来の自分の行動変容につながること、行動に影響を与えること、そこには意味がある。
自分に影響を与えないこと、自分の行動に変化をもたらさないこと、自分に関係ないこと、自分が想像できないこと、そこには意味がない。悩みという暇つぶしに過ぎない。
私たちは、習慣に彩られた生活をしている、そして、そこで、暇つぶしのために、悩んでいるふりをしているだけの人間という生き物だ。
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