なぜ感覚は変えられないのか?

知識

なぜ感覚は変えられないのか?

2022/5/6

感覚

興味の創成と喪失
勉強や仕事は努力することができるけど、興味は「 努力したからって興味が持てる 」とは限らない。「 興味を持つ 」という意識をコントロールすることはできない。

なぜ感覚は変えられないのか?

味覚

味覚:人それぞれで好みが異なる。好き食べ物嫌いな食べ物は異なる。

  • 私にとっての「 おいしい 」は、誰かにとっての「 マズイ 」になる。
  • 私にとっての「 マズイ 」は誰かにとっての「 おいしい 」になる。

環境や年齢によって味覚が変わることもあるけれど、それはごくわずかで、人の味覚は人生において大きく変化しない。

自分が「 マズイ 」と思っている食べ物を自分が「 おいしい」と変えることは難しい。
※ 味覚を意識的に変化させる研究は進まない、意味がないから。

触覚

触覚:SM的嗜好がない人にとっては「 痛み 」でしかない感覚を、脳内による思考によっての「 快楽 」へと変換させている。

「 痛み 」は触覚の産物ではなく「 思考 」の産物であるという転換である。

知覚

知覚:それぞれで、趣味嗜好が異なる。

  • 私にとっての「 おもしろい 」は、誰かにとっての「 つまらない 」となる
  • 私にとっての「 つまらない 」は、誰かにとっての「 おもしろい 」となる
  • 私にとっては野球が「 つまらない 」が、友人にとっては「 おもしろい 」になる
「 つまらない 」「 おもしろい 」は、思考的作用である。

知覚は、味覚のようにコントロールできない性質のたぐいではない。

  • 詳しく知ること
  • 何かのきっかけ状況の変化
    ※ 恋人が野球好き、野球好きな友人ができた

状況次第で、思考的作用は変更可能である。

味覚ほど難しくないとしても「 つまらない 」と思うことから「 おもしろい 」と思うようになるのは、簡単じゃない。

  1. 知覚の持つ思考的作用は、簡単じゃないにしても、変更可能である。
  2. 味覚を変えるのは難しい、意識でコントロールできる感覚ではない。
  3. 知覚を変えるのは簡単じゃないけど可能だ、意識でコントロールできる感覚である。

いかにして、知覚の感覚を変更していくのか?

知覚の構成要素である、思考的作用を起点として深化させる。

例えば、野球場にプロ野球を見にいく。

  • 野球に詳しい人と一緒に行って説明してもらうことで、野球の「 おもしろさ 」を理解できる。
  • 一緒に行った人の感情、球場が盛り上がっている臨場感によって「 何がおもしろいのか 」を体感することができる。

それで「 つまらない 」と思っていたことが「 おもしろい 」と変化することもあり得る。

  • 野球に興味が持てなくても、ビールとか、ビールの売り子とかを楽しむかもしれない。
  • 野球に興味が持てなくても、一緒に行った人が好きな人で、デート気分が楽しいかもしれない。

何かのきっかけで「 なんか、おもしろいかも 」という興味が出てくる可能性がある。

①「 野球場に行く 」という体験を通して、自分の思考が変化する。
②「 つまらない 」と思っていたことが「 おもしろい 」と思うようになって、思考的作用が変化した。
③「 おもしろい 」と知覚するようになった。

体験を通して、知覚を変化する可能性が示唆された。

本当に味覚は変えられないのか?

本能

本能としての苦手がある。

「 苦いものもの 」や「 酸っぱいもの 」が苦手なのは、私たちの本能に基づく。

  • 苦いものは、毒のあるもの
  • 酸っぱいものは、腐ったもの

もともとの自然の摂理があったため、身を守るために本能的に苦手であることは、理解できる。
本能ならば、DNAに刻まれた性質ならば、味覚の変更は不可能である。

調理法

実は、食材が問題だったのではなく、調理法が問題だったのかもしれない。

確かに、過去に苦手だった食材も、調理法を変えることで、苦手ではなくなった経験がある。

私たちは、家庭環境に強く影響を受けるので、親が作る料理によって、苦手な食材が生まれることもある。

実家を出て、新しい調理法に出会うことで、苦手意識が拭われることもある。

ただ、あくまで、調理法なので、味覚が変化したわけではない。

食材

加工された食材を食べていて、本物の新鮮な食材を食べたことがなかった。

例えば

  • 缶詰のマッシュルーム → 生のマッシュルーム
  • 冷凍のグリーンピース → 新鮮なグリーンピース
  • メンマ → たけのこ

調理法と考え方は近しく、野菜本来の姿となっただけで、味覚が変化したわけではない。

環境

海外で長く生活していると、日本の料理が味が濃く感じる。特に、ラーメンはしょっぱく感じるので「 味覚が変化した 」と言えるかもしれない。しかし、しょっぱくてもラーメンはおいしいのだ。本来の意味で味覚変化である「 苦手から美味しい 」ではない。

味覚の変化について、考察してみたが、それは容易でないことが検証できた。

子どもと未来

私たちは、知覚はコントロールできるけど、味覚はコントロールできないことがわかった。

私たちは、何も知らない「 無 」として、この世界に生まれたのだから、本能的な苦手以外においては、本来苦手な食材はないはずだった。だとするならば、育成された家庭環境によって、味覚の嗜好は形成される。そして、その感覚は、生涯変えられない機能として個人に付属する。

  • 「 子をなす 」ということは、自分中心の生活ではいられない。
  • 親は常に、子への影響を与え続ける存在である。

なるほど、確かに、知識は得ることは毒にもなる。二の足がすくむ原因にもなる。

「 子を育成する 」という娯楽は、子への責任を伴う。確かに「 そんな重大な責任を負えない 」と考えて、子をなさない夫婦の形へと変化も頷ける。

それならば、世界は、どこへ向かうのか?

本能である生存と繁殖のうち、繁殖を手放すということは、人類を終焉へと導く。

生まれ変われなくなってしまった、私たちは、どこへ行くのだろうか?

輪廻転生への信仰は、個々によるとしても、繁殖の放棄は「 死んだ後また生まれ変わる 」という、死が持つ希望を拒否することになる。

「 繁殖の放棄 」という思想は、死を間近にしたときの恐怖とならないか?

誰もが自由に生きられる時代だ、子をなすのも子をなさないのも自由だ、ただ、どちらにしても、自由には責任が伴う。

子への責任か、人類への責任か。

おしどり夫婦という概念
存在という概念は、物質を超えて拡張できる。だから、物事の本質を掴むときには、ただ、その概念を抽象度を上げる。そうすると、物質という壁を超えられる。物質を超えた先にある、拡張現実の中に、物事の本質がある、存在という概念がある。
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