走る

2021/9/20
どこかに向かって走っていることもある。
ただ走っていることもある。
どこかに向かって走っているのは、早くそこに着きたいという気持ちである。
子どもは、ポジティブに走る。
大人は歩く。
大人は遅刻しそうなときに走る。
大人は約束に遅れそうなときに走る。
大人は健康のために走る。
大人はジョギングというスポーツで走る。
大人の走るには、理由がある。
大人はネガティブに走るか、目的があって走る。
大人は、意味を求めてしまう。
大人は、何かを考えてしまう。
走ることに価値を付ける。
「ただ、走りたいから走る」という自分の衝動に駆られて、走ることはない。
学校で走らされたから。
走ることを強要されたから。
「走る」という自発的な行動だったのに、決められて、横に並ばされて、『よーいドン』と、走らされた。走りたくないのに、走らされた。競争したくないのに、走って競争することを強いられた。
自発的な行動が、他人に強制され、コントロールされることで、ただのやりたくないことに、めんどくさいことに、成り下がった。
そして、自発的な行動に、理由や目的や意味を見出す必要が生じた。
初めはそこに、何もなかった。
「ただやりたい」から「やっていた」だけだった。
そこに、規則や競争を持ち込んだ。
他人が決めた規則と、他人との競争が、自発性を殺した。
そして、自発性を殺されながら教育された大衆は、やりたくもないことに時間を注いで、人生を謳歌している。
やりたくもない仕事を人生の軸に置いて、過ごしている。仕事を言い訳にして、すべてのことを諦めている。それが大人だ。
自発的な行動をする、やりたいからやる。
やりたくないことは、やらない。
それを、人は、自由という。
一方で、規則と競争がなければ、「どうすればいいのか、わからない」という人がいる、自発的な行動がわからない人がいる、やりたいことがわからない人がいる、「不自由がいい」という人がいる。それが大衆だ。
大衆は「自由になりたい」と言いながら、不自由を求めている。矛盾の中で生きている。
自由には、孤独と強い意志が必要だ。
「自由であり続ける」という意志だ。
自由は、簡単じゃない。
でも、だからこそ、魅力的だ。
偽りの自由の中で。
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