常識と教養
2020/10/04
常識
常識という言葉は、非常に嫌いなので、普段は絶対に使わないのだが、説明を分かり易くするために、敢えて、使う。
常識は、世間一般の人の思考のような使い方をするが、実際に、世間一般の人という標準的な人は存在しない。
人それぞれで、価値観が違うのだから、常識も人それぞれ である。
それは『お前にとっての常識は、俺の常識じゃないし、俺にとっての常識は、お前の常識でないから、そもそも、常識という概念は、存在しない』というのが、湯浅の持論である。
教養
湯浅の持論はあるとしても、常識は共通認識のように用いられがちだが、教養は人によって異なることには、違和感がないのはなぜだろうか?
本来であれば、教養レベルによって、常識も異なるから、教養こそ、常識の根源 である。
不惑までの無知の知を恥じて、今、教養という名の常識を身に付けているところである。
そして、自分の中で、『納得いくレベルの教養を身に付けたら、友達と話が合わなくなるんだろうか?』と考える。
40年も生きていると、20年以上、30年以上という長年の友達もいる。
たまに、みんなで会う分にはいいけど、二人ではキツイなーってなった友達もいた。
それは、成長の過程で、ベクトルが違ったまま進んでいって、昔は気にならなかった距離が如実に表れてしまうことによる。
世界一周で、広がった価値観のズレが、教養を得ることで、さらに大きな価値観のズレになり、会話してもつまらないことになってしまいそうである。
友達とは、ある程度の価値観が合うから、友達で居れるのであって、その価値観が大きくずれてしまったら、それは、もう、一緒に居ても楽しめなくなるかもしれない。
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