【本要約】完全教祖マニュアル

宗教

【本要約】完全教祖マニュアル

2021/2/3

■きっかけ

この本を読むきっかけになった、サラタメさんの動画

■はじめに

教祖は、現代風に言うと、パンクでロックで、ファンキーな人たちである。

現代宗教の覇者であるイエスは、新興宗教をはじめて、母のマリアから心配されるというエピソードがある。息子が、いきなり、新興宗教をはじめたら、お母さんがビックリするのは、現代も2000年前も変わらない。

「山に入って瞑想していたら、神の啓示が下りてきたから、新興宗教はじめるぜ」と言ったのがムハンマドである。ムハンマドがはじめた新興宗教がイスラム教であり、最初の信者は、自分の妻である。つまり、「今日から、俺、教祖になるから、お前、信者となれよ」である。

釈迦は、王子様で、何不自由ない暮らしをしている中で、「アレっ、俺も、いつか死ぬじゃん。やべーじゃん」って気付いて、新興宗教をはじめた。それが仏教である。

■教祖とは?

教祖になるためには、思想と実践が必要である。

  • 教祖…何か言う人
  • 信者…それを信じる人

教祖になるためには、信者を得なければならない。教祖は、人をハッピーにする仕事である。人をハッピーにして、信者からの尊敬を得られる。人をハッピーにした対価としてお金を得る。

教祖は何もしない。

例えば、農業は、畑を耕せば土の中の生き物を殺してしまうかもしれないので、仏教では、農業をしない。乞食をして、人から食べ物を貰って暮らす。ここまでするから、教祖は、堂々と綺麗事が言える。その綺麗事に、正しいも間違いもないから、失敗もない。

教祖として成功し、教祖の教えが広く伝わった時、教祖の思想は文化となり、伝統となる。教祖の思想は何百年何千年も、人々に影響を与え続け、人々をハッピーにし続ける。

■宗教とは?

現代日本においては、宗教は、ネガティブなイメージがある。それは、宗教が、よくわからない、非論理的なものだと、考えているからだ。宗教は、非論理的で、人を殺すこともあるが、非論理的に、人を助けることもある。

新興宗教は、歴史が浅いが、言い換えれば、最も新しい。

例えば、仏教では、「女性は仏になれない」ということがある。女性に対する認識が、時代的な制約を受けている証左である。

そのぶん、新興宗教は、時代の今を捉えることができる。

イエスも、ムハンマドも、釈迦も、最初は、新興宗教の教祖だったのだ。イエスも、当時のユダヤ人からは、” ヤバいやつ ” 扱いされていたのである。

大事なことは、その新興宗教が、人をハッピーにできるか否かである。

■日本における宗教の位置付け

日本人は、” なんとなく ” 無信仰 である。

クリスマスにケーキを食べ、初詣に神社に行き、人が死んだらお寺から坊主を呼ぶ、宗教的無節操からも、明らかである。

この ” なんとなく ” 無信仰 の要因は国家政策である。

  • 明治政府の政策
    『信仰の自由は認めるけど、特定宗教を信仰せずに、天皇だけ崇拝してるのが、常識だよね』
  • 第二次世界大戦後
    『天皇崇拝』の部分が抜け落ち、『信仰の自由は認めるけど、特定宗教を信仰しないのが、常識だよね』

これが、現代の常識である、” なんとなく ” 無宗教 である。

死に面した時に、多くの人は、必死に自分の人生の意味を探し求め、死後の世界をおもう。その時に、宗教が選択肢の一つとなる。

日本人は、宗教をネガティブに捉えているから、宗教の知識がない。それは、戦前の国家神道が、戦後、アメリカによって抑圧された結果である。宗教の知識がないから耐性がない。

■教祖になるために

教祖になるために最初にすることは、教義を作ることである。

それは、口頭でも構わない。キリスト教の物議も、口頭で伝えられて、後に文章化された。そして、教祖として大成した後は、適当なことを言っても、弟子たちが、深い真意を考えてくれる。

だから、少しのミスは気にせず、教祖としての第一歩を踏み出すことだ。

宗教の問題は「神」をどう捉えるかであるが、悩む必要はない。「神」がいるかどうかはどうでもいいのだ。宗教で大切なのは、それが正しいかどうかではなく、人をハッピーにできるかどうかである。

神がいるとしたら、神にどんな機能を持たせたら、人をハッピーにできるかを考えればよい。

例えば、「うまくいかなかった時は、神のせいにできる」という機能があるとする。何かで失敗した時に、「これも、神の思し召しだ」と納得できればいい。神は失敗した人を助けるのではなく、失敗自体を肯定してくれる存在なのだ。

人をハッピーにできるのであれば、神もいらない。仏教は神がいない。釈迦が死んだあと、釈迦が神扱いされるようになったし、イエスも神扱いされている。

■教義の作り方

教義や、神の捉え方の最も簡単な方法は、既存宗教のパクリである。

具体的行動は、まず、仏教、キリスト教、新興宗教へ入信する。そこで、まじめに、信者生活を送る。そうすると、「現代感覚に合ってないな」と思うところが出てくる。そこで、その合ってない部分を修正し、別の一派として、教団を立ち上げる。

こうやって、一部だけ現代的に変更して、それ以外をパクれば、簡単に教祖になれる。

宗教は、軌道に乗ると硬直化する。硬直化すると、基本に返ろうという人が現れ、別の一派を作る。この繰り返しが、伝統宗教で見られてきた。硬直化するのは、宗教が組織化するからである。

教義を作る上で、重要なのは、反社会性である。伝統宗教は、最初は、反社会的な宗教だった。

イエスは、当時、バリバリのアウトローだったから、捕らえられ死刑にされている。

新興宗教が反社会的になるのは、社会が抱える問題点に根差して発生するものだからだ。

差別が正しいという当時の常識は、現代の非常識である。社会が常に正しいわけではない。社会の多くの人が信じている妄想を常識という。

■教義の内容

「うるせえ、お前らがどう言おうと、俺はこれが正しいと思うんだ」

というのが、新興宗教である。

現在、不幸な人というのは、現代社会の提示する価値基準で不幸ということである。例えば、お金がないとか、結婚できないとか。

  • お金がある方が不幸だ!
    お金持ちは離婚率が高かったり、家庭がうまくいってない人が多い。
  • 結婚した方が不幸だ!
    結局は、他人は他人なのだから、他人と居ても不幸になるだけだ。自分1人で、自分の幸せを見つけることが本当の幸せだ。

教祖のやること

  • 社会の基準で幸せになれない人を見つける。
  • 反社会的な基準を与えてその人をハッピーにする。

例えば、仏教の反社会性

  • 家族を捨て、出家し、社会との関係を断絶して引きこもる。その間、生産的な活動もしない。

教義は、社会が提供する価値基準だけが全てではないことを伝える。

■インテリを信者に

宗教とは実は論理的である。仏教なら、輪廻転生、イスラム教なら、ムハンマドの使徒性といった、前提がある。その前提を踏まえた上で、論理的思考をすると、哲学となる。哲学が美しいとインテリが酔う。

社会の問題点を発見し、前提を用意する。前提を主張しながら、問題点を追求していると、インテリが、勝手に、前提と問題点の間を論理的に補完してくれる=哲学。

インテリからすれば、教祖の前提を受け入れるなら、これまでの答えが出なかった社会的問題や人生問題に論理的な答えが出せてしまう。前提を受け入れる=信仰。

インテリが集まって議論を繰り返すことで、高度な哲学と洗練される。

■一般人を信者に

教義と矛盾が生じたら、人にすり寄る方を優先する。教義を守るためではなく、人をハッピーにするために、教祖は存在する。

インテリのためには、高度な哲学が必要だったが、一般人は難しい話しには興味がない。一般人に必要なのは、極限まで簡略化された教えと、お手軽な現世利益である。

知的水準は、獲得すべき大衆の最低水準の人々が受け入れられるように合わせなければならない。
by ヒトラー

具体的には、偶像は力があり、一般人にもわかりやすいから、偶像を作る。

■信者の信仰をより深く

信者の思想や生活の基盤を、教義で変えてしまう。教義の思想を、信者の日常にする。

日本人は、「なんとなく霊的なもの」を感じても、宗教的知識がないので、それを表現するボキャブラリーを持たない。わからないこと、不思議なことは、怖いのである。だから、教祖が、信者に説明し納得させることで信者の信仰が深まる。

科学は世界の説明原理であり、世界は科学とは無関係にいつも回っている。だから、科学で説明できないこともある。世界のあらゆる現象は全て説明できるはずというのは、科学への信仰である。科学も宗教の一つである。(キリスト教のローマ法王が地動説という ” 科学 ” を認めたのは、1992年である)

■信者を困らせる

人が宗教を意識するのは、「困った時の神頼み」である。「困った時」の、最たるものは、「死」である。しかし、人は意識して生きてはいない。

だから、人を困らせる必要がある。例えば、キリストは、「我々の先祖のアダムとイブがエデンの園で果物のつまみ食いをした罪を我々は引き継いでいる。だから、キリスト教徒となり神を信じないと、地獄に落ちる」と言って、困っていない全ての人を、困らせた。

相手が今まで困っていると認識していなかったことに対して、論理的な意味付けをして困っていることを作るのは教祖のセンス次第である。

釈迦は、老人や、病人や、死人を見て、「自分は、何不自由ない王子様だと思っていたけど、老い、病気、死から、逃れられないから、実は困ってる」ということに気付いたのが、仏教のはじまりである。

人々がなんとなく受け止めていることを、困っていることに変え、その解決法として、宗教を作った。

この困っていることが、教団の運営上、重要な役割を果たす。教義の肝となる部分である。

例えば、現代におけるエコというアイデアが、困っている状態を作り出している。地球環境が悪化しているから、将来、困ったことになるぞというのが、エコである。

■困らせた後の救済

困らせた後は、それを解決して、救済を与える。そして、「現在の幸福は、宗教の信仰のお陰だ」と認識させる。それが、強力な脱退防止策となる。さらに、救済は、一度きりではなく、サブスクリプションモデルのように、定期的な形式にしなければならない。

「信者が神を信じるのは、信者自身の自発的意思によるものではなく、神が信じさせてくれている」という予定説によって、より神の存在を再認識させ、信仰心を保つ。

教団の組織を固めるためには、差別化が必要である。教団内に特殊なルールを採用し、教団の内側と外側に温度差を作ることで、信者を繋ぎ止める。特に、食物規制は、異教徒との食事が難しくなり、同じ宗教の信者同士で交友するようになるので、宗教コミュニティの強化となる。

創価学会は、定期的に地域単位でイベントを行うことで、コミュニティが形成され、成長してきた。

イスラム教の断食は、みんなで腹を空かせた貧乏人の気持ちになってみようというイベントである。

ユダヤ教の安息日は厳格である。車の運転も、料理も、エレベーターのボタンを押すことも労働と見なし、行わない。

■救済のための具体的手段

信者は「無条件で救われる」のは、不安なので、「これをやれば救われる」という義務があった方が安心する。

宗教の中核は、「信仰」にある。

「神様は尊大だから、こんなダメな私でも救ってくれる」という信仰が一番大切である。その信仰があれば、義務を守らなくてもよい。しかし、そんな風に、義務も守らずに、神様は自分を救ってくれるなんて都合よく信仰できる人なんて、まずいない。だから、” 救われるために何かやる ” という義務がある方が、信者にとっても楽なのである。

しかし、義務を与えただけで、信者がハッピーになるわけではない。信者に信仰が欠けていれば、ハッピーにはなれない。

■教祖の権威

  • 教祖は、権威をもって、信者に義務を与える。
  • 教祖は、権威を振りかざして、教団の結束を固める。

人は権威に従うことが好きである
=権威に従うことで学びながら育っていくのが人間である
=社会に適応するということである

人は、権威を求めるように、教育されてきた。

権威に従うということは、自分より優れた人の意見を聞くということであり、「自分で考えなくてよい」ということだ。

実は、多くの人は自分で考えことが苦手なのだ。自分で考えて、自分で決断して、自分で行動することは、エネルギーを使う。だから、権威のある人の思考にすがって、楽をしたい。楽というのは、ハッピーなのである。

■宗教とお金

宗教的寄付の本質は、自分のための行為であるから、教祖は、奉仕の気持ちでお金を受け取るべきである。お金はうんこのようなもので、教祖は便器のようなものである。

現代の資本主義社会では、お金を持つことの意味が過剰に評価されている節がある。経済力の低いものたちは、社会的に低い立場にある面もある。しかし、本来、お金は、ハッピーになるための一つの手段でしかなく、お金が目的ではない。そして、ハッピーは、本人の価値観によって定められる。

宗教団体に対する寄付金は、非課税だから、集めた寄付金は、100%教団で使用できる。

ユダヤ教には、「正しい信仰があれば、経済的にも豊かになれる」という考え方がある。

キリスト教のプロテスタントでは、世俗の全ての職業を天職、即ち、神が人間に与えた任務と捉える。だから、正直な商売により利潤が発生しお金が貯まることも、神の恩寵があると考える。お金持ちになるのは、宗教的によいことである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました