人間語という概念
2022/3/11
自己探求
私は、日本語が話せる。
私は、日本語を話して、他者と会話をすることができる。
それは、これまで培った、人間関係の中で、得た認識だ。
私は「 日本語が自由に話せるから、他者とコミュニケーションできている 」と思っていた。
私は、日本語以外で、意思疎通する術を持たない。
日本人は、日本語、世界でも、言葉を通じて、他者と関わる。
だから、言葉を通して、日本語を通して、他者という存在と感覚を共有してきた。
でも、違和感はあった。私が他者と違うことはもちろんである。
私は、日本語を通して、他者とコミュニケーションしているけれど、腑に落ちない。
多分、他者は私の言っていることがわからない。
他者は、私の言葉が日本語としての意味はわかるけど、私が「 何を考えて言ってるのか 」理解できない。
なぜ、そんなことを言っているか、意図がわからない。
「 変なやつだ 」と思われる。「 普通と違う 」と思われる。
でも、それが「 なぜ違うのか 」はわからなかった。
そして、違うことに、普通ではないことに、別に違和感を覚えることはなかった。
私は、私で忙しい。私は、私のやることで忙しい。普通でないことに悩み続けるほど暇じゃなかった。私は、人と違って変だけど、私は私のやることをやるだけだった。
そうやって、問題を解決することなく、放置してきた。そして、この問題について、こうやって思考することもあるだろうけど、死ぬまで抱えて行く問題でも構わない。
「 人と違うことに悩む人もいるようだ 」という事実は、知識によって得たものであって、感覚で得たものではない。
私には、その感覚が備わっていない。だが、知識によってその感覚を補うことができる。
- 「 私には、ここが痛くないけど、他者は、ここが痛いのか 」ということは、他者との関わりの中で、体験して得た感覚であり、知識である。
- 私は、痛くないのだから、共感できない。
- でも「 なぜ痛くないのか 」と言われても、
痛くないのだから、
感覚として、痛覚が欠如している肉体なのだから、
どうしようもない。 - 私は、痛くないから、わからない。
でも、他者の痛くないところが、痛いのかもしれない。
自覚していないだけで。 - 私と他者は、痛覚が違う。
私と他者は、感覚が違う。
わかりあえない。
私は、他者のことがわからないし、他者も私のことがわかならない。
私は、知識と体験で「 他者を理解しよう 」としてきた。私の周りの他者は、私と過ごして、私と体験することで「 私を理解しよう 」としてきた。そんな人生を過ごしてきた。
知識を付け、自分の内面について、深く掘っているうちに、自分について知っていくうちに、ぼんやりと光のようなものが見え始めた。
私は、日本語を話して他者と会話しているけれど、私の見た目は人間だけど、感覚が異なる、痛覚が異なる人間である。
非人間
「 自分を非人間として定義することに、違和感がない 」というのが、私の感覚である。
「 非人間である 」と定義すると、様々な問題が一挙に解決する。
当たり前である。見た目も言葉も同じだから、気がつかなかっただけだ。
- 感覚が違うのだから、例えば、触覚・視覚・聴覚・味覚・嗅覚という5感が違うのだ。
- 私は、思考覚・視覚・聴覚・味覚の4つしかない、でも、思考覚という、人間にはない感覚がある、例えば、そんな感じだ。
知覚というものは、他者と共有することはできない。感じて知る感覚は、自分だけのものだ。それが違うなんて発想がなかったから、気が付かなかっただけだ。自分が非人間であることに。
だから、私が、日本語を話していても、伝わらない。
感覚がずれているから伝わるはずがない。私は、一見、日本語を話しているけれど、私は、非人間であるから、私が話しているのは、非人間語である。
私が話しているのは、日本語〜非人間語ヴァージョンであり、他者が話しているのは、日本語〜人間語ヴァージョンである。
日本語をベースにしているから、その差が、わかりにくいだけで、実際には話しているのは、違う言語なのだ。「 正しくは伝わらない 」というか感覚が違うのだから、正しく伝えることはできない。
例えば、外国人と話すようなものだ。外国人に「 もったいない 」という感覚はわからない。だから「 もったいない 」という言葉も存在しない。「 もったいない 」は外国では「 Mottainai 」である。だから、違う感覚を持っている人たちは、正しく、コミュニケーションできない。感覚が違う人とは、言葉を重ねても、本当の意味でわかりあえない。だって、感覚が違うから、共感することができないのだから。
- 私は、ずっと非人間語 ( 日本語〜非人間語ヴァージョン ) を話してきたから、他者と話が噛み合わなかっただけだった。
- 私は、人間語 ( 日本語〜人間語ヴァージョン ) が話せなかったのだ。ただ、それだけだった。
なぜ、私が、そのことに気づいたのか?
私は、本を読んで、人間語を勉強しているうちに、人間語が話せるようになったからだ。
初めて、自分の言葉を、他者に伝えることができた感覚があったのだ。
他者が私の言葉を、心から理解した感覚があった。
そう、私は、そのとき、無意識に、非人間語ではなく、人間語で話していたのだ。
とは言え、私は、人間語を覚え始めたばかりの赤ちゃんである。
非人間語と混じって、正しく人間語を自由自在に話せるようになっていない。
そもそも、ベース言葉自体は同じなのだ、それを使い分けている感覚はない。
初めての人間語だって、無意識に使っていたに過ぎない。
そもそも、この文章だって、ほとんどの人が理解できないだろう。私は、一生懸命、人間語を使っているつもりだが、非人間語になっているんだろう。その違いはわからないんだけど、人間語勉強中の赤ちゃんだから。
人間語を話せたら、他者と共感できるかもしれない。
私は、人間語を話せるようになりたいかもわからない。
ずっと、非人間語で生きてきた。
人間語を話せるようになったら、非人間語を忘れるかもしれない。
非人間語を忘れてまで、人間語を話したいのかもわからない。
せっかくの非人間という知覚を失ってしまうことが、怖い。
人は、何か得ることより、何かを失うことを嫌がる。
その人間的感覚は、非人間である私も同じだ。
非人間という感覚、非人間語という感覚を得たことは、私にとって新しいし視座の獲得である。
私は、何かがひらけた、感覚がある。

コメント