新聞というメディアへの対峙

新聞というメディアへの対峙

2021/2/22

ホテルには新聞があるから、新聞を読む。

最近は、ニュースが必要ないので、ニュースを見ていない。世間がどんな情勢だろうと、とりあえず、直近の湯浅の生活に支障をきたさないから、その情報は、不要で時間の無駄だから、シャットアウトしている。

久しぶりに、新聞を読んだら、そこは、思考の渦であり、頭がショートしそうになった。これまでは、新聞を読むときは、漫然と事実として読んでいた。

でも、違う。

この記事が、誰が何をしたという情報は、誰に向けて何を伝えてどういう思想を促そうとしているのか?

この数値は、統計的に正しいのか、サンプル数は適切か、拡大解釈していないのか、信用に値するものなのか?

新聞だからって、全ての情報が100%合っているとは限らないのだ。例えば、どこかの国が公式に出した情報であっても、その国が嘘を付いていない保証はない。情報は、自分で、取捨選択した上で、内容を精査しなければならない。

新聞もメディアである。資本主義のメディアであるから、そこには、当然、金儲けが潜んでいる。わかりやすい広告、わかりにくい広告、広告と書いてないが実際は広告のような記事、様々な広告や記事が入り混じっている。だから、俯瞰で見て、それが事実だけを語っているのか、そこに、何らかの思想が付け加えられていないのかを注意深く読む必要がある。

政治経済では、自分の資産の状況や、自分の投資の状況を踏まえて、自分がこれからどういう風な行動を取ればいいのかを、近似的に、また、将来的にも、思考しながら、読む必要がある。字面を、追うのではなく、その字面から、ミクロな日本の一つの会社から、マクロな未来の世界経済までを、想像するために読むのである。

全てを疑う必要はないが、ただ、漫然と情報を受け取ってはいけない。そこには、自分の思考を加える必要がある。新聞とはニュースとは、自分にとってのインプットである。そして、自分にとって関係があって、それが将来に関係するものであれば、それをよく思考して、咀嚼する必要がある。その上で、何かを判断したり、行動したりといったアウトプットにつなげる。

新聞を読むということは、こんなにも、労力を使うものだなんて、知らなかった。でも、新聞を読むということを、思考したら明確化できた。この思考にこそ、価値がある。こうやって思考することに意味がある。

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