矛盾と名前

歴史

「 入門経済思想史世俗の思想家たち 」からの思考

2022/4/11

変化

自我の彷彿は、近代になってからである。

それまでは、伝統と慣習に従って、人々は、生活をしていた。変化という概念、言葉自体はあったかもしれないが、それは、ネガティブな要素として用いられていたに違いない。

そもそも、人間の脳は、変化を嫌うように設計されているのだから、本能的に正しい。伝統と慣習に従えば、考えなくてもよい、脳を使う必要もない、脳の省エネになり、脳にとって最適化される。

「 変化に適用したものだけが生き残ってきた 」という進化論は、変化に適用できないものは淘汰されてきたはずだ。そして、史上では、淘汰されたものの方が多い。

生命史は、淘汰の歴史である。

だから、変化に適用できないのは、自然である。一方で、変化に適用できる特異な性質を持つ種族の末裔が私たち人類なのだから、変化という特徴は、遺伝子に内包されている。

矛盾であるけれど、矛盾を受け入れる。
私たちは、変化が苦手で、得意なのだ。

名前

ずっとずっと、昔、ムラ社会では、個人がなかったので、名前が存在しなかった。それどころか、自分と他人との境界が、今とは異なっていた。

モノは、ムラの共有財産であり、個人に対しての所有は、現在ほど明確な線引きはなかった。

自己と他者、一番身近な他者である家族は、自己同一視に近い概念で捉えていた。現代でも、自分の家族がバカにされると、自分のことではないけど、腹が立つように。それのもっと強力なバージョンだったはずだ。

そんな現代の感覚よりももっと強く、結び付いていた。

例えば、

  • ドアがノックされた時、私たちはドアがノックされた感覚がある。
    私の体の一部ではないドアという物質に対して、あたかも、体の一部としての機能、感覚を持つ。
    私たちの感覚は、体内に留まらない。
  • 酸っぱいものを見ただけで、口の中が酸っぱい感覚がある。
    食べてもないのに、酸味の感覚を持つ。
  • 他者が血を流している姿を見たときに、痛い感覚がある。
    他者の感覚に共感する。

多分、その感覚のもっともっと強力なバージョンで、家族を捉えていた。そう、個人の名前が必要ないくらいに、同一視していた。区別する必要がないものには、名前は存在しない。

英語に、兄と弟を区別する言葉はない。兄も弟もbrotherである。日本は、年齢を重要視する文化があるから、兄と弟という言葉が生まれた。

言葉が生まれるとき、それは、区別が必要なときである。

だから、区別が必要ないものには、名前は宿らない。家族の中で個人を区別する必要がなかったら、名前など存在しない。

私たちは、自分のモノサシで、世界を見ているに過ぎない。

私たちは、自我を持っていなかったし、名前も持っていなかった。私たちは、ただ、そこに在る存在だった。

【本要約】入門経済思想史世俗の思想家たち
経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合にも、間違っている場合にも、一般に考えられているよりも遥かに強力である。事実、世界を支配するものは思想以外にはない。ケインズ

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