欲しいものがないという便利さ

社会

欲しいものがないという便利さ

2022/4/30

不便 = 欲しい

「 欲しいものがある 」というめんどくささは「 欲しいものがない 」という便利さである。

今の生活において、不便なことに気付く。不便なことに気付かなければ、問題にならない。不便という問題があるから、解決しなければならなくなる。多くの場合、何かを買うことで、解決する。

  • 「 掃除することを当然 」と思っていれば「 ロボット掃除機が欲しい 」と思わない。
  • 「 洗濯をめんどう 」と思わなければ「 乾燥機付き洗濯機が欲しい 」と思わない。
  • 「 
歩くと遅いから不便 」と思わなければ「 自転車が欲しい 」とは思わない。

人は、生活をしていて、何か、不便があって、その不便を解消するものを欲しがる。私たちの欲求の根本のひとつは、不便である。もし、不便に気付かなければ、欲しがらない。

私たちが住む資本主義社会は「 みんな、実は困ってますよね?世の中にはこんなに便利なものがありますよ!」という情報で、経済がまわっている。

  • 私たちは、「 情報をいいものだ 」と決めつけているが、情報は必ずしもいいとは限らない。
  • 私たちは、知らないものを欲しがれない。
  • 私たちは、「 不便だ 」と気付かされなければ「 不便だ 」と感じない。
  • 私たちは、情報がなければ、不便を感じない。
  • 私たちは、情報がなければ、不便を解決するものがわからない。
  • 私たちは、情報がなければ、不便を解決するものを欲しがれない。

もし、私たちが、情報を遮断してしまえば、不便さを感じない。だから、不便を解決する必要がない。もう、不便を解決する何かを欲しがれない。そうすれば、消費しなくて済む。

私たちは、もう、既に、十分便利な世界に住んでいる。
スマホがあれば、もう、ほとんど不便に困ることはない。

でも、資本主義社会は、右肩上がりの消費が前提となっているから、情報は、私たちを様々な手法で不便を知らせ、困らせてくる。

私たちは、不便に感じて、困らないと、消費しないからだ。

この内在的な困りごとを、顕著化する手法は、人類が古代から用いてきた伝説のマーケティングである。

マーケティングとは、人為的に社会の欲求を生み出す技術である。

マーケティング

マーケティングという名前が存在する遥か以前に、マーケティングを用いて、世界を席巻したビジネスマンがいたことを知っているだろうか?

誰もが知る、人類史上No,1のビジネスマンとは?
マーケティングを創りし神のごとき存在である。

そう、神の子である。

人類史上No,1のビジネスマンは、神の子イエスである。

ビルゲイツ?スティーブ・ジョブズ?イーロンマスク?ジェフベゾス?マークザッカーバーグ?
彼らはイエスからしたら、最近生まれた子どもたちである。

【本要約】完全教祖マニュアル
人は、権威を求めるように、教育されてきた。権威に従うということは、自分より優れた人の意見を聞くということであり、「自分で考えなくてよい」ということだ。実は、多くの人は自分で考えことが苦手なのだ。だから、権威のある人の思考にすがって、楽をしたい。
【 引用 】
イエスは、「 我々の先祖のアダムとイブがエデンの園で果物のつまみ食いをした罪を我々は引き継いでいる。だから、キリスト教徒となり神を信じないと、地獄に落ちる 」と言って、困っていない全ての人を、困らせた。
イエスは、相手が今まで困っていると認識していなかったことに対して、論理的な意味付けをして困らせた。

キリスト教の開祖のイエスが、商材として選んだのは、思想である。「 自分の教え 」という情報商材である。その情報商材は。2000年以上も売れ続けれているのだ、世界中で。そして、情報商材が発売されて2000年経った現代でも、世界の人口の30%を占める人々がその情報商材を買っているのだ。

イエスほどではないけれども、アジアにも、人類史上トップクラスのビジネスマンがいる。ブッダである。仏教の開祖ブッダの商材も、思想である、情報商材である。「 みんな、老い、病気、死から、逃れられないから、困ってるよね。執着を手放せばいいんだよ、ムズイけど。」と言って、潜在的に困っていることを表面化させた。

不便という情報

私は、無作為に情報を得ることを止めた。すべての情報を自分の意思を持って入手している。

テレビはない。
新聞もない。
ニュースアプリも見ない。
ツイッターも見ない。

資本主義社会の情報と距離を置いている。とは言っても、Youtube見たりするから、完璧に遮断はできない。

それでも、メディアが意図的に拡散する、消費を前提とした「 不便 」という情報が入ってくることはない。

だから、私は、何かを欲しがれない。
不便じゃないから。
困っていないから。
この状況では、欲しがれない。

実は、これが、快適なのだ。
何も欲しくないから、大金を稼ぐ必要がない。
モノに興味がなくなった。

自分が本当に、興味があるモノ・コトにお金を投じることができる。
情報を遮断して、すべてをフラットにして、それでも、興味を失わなかったモノ。

それは、食事と旅行だ。

モノではなく、体験だ。

そして、私の欲しいモノは自由な時間である。
体験をするための時間、自分が好きなことをするための時間である。

欲しいはめんどう

私は、久しぶりに、生活の中で不便を感じて、欲しいものを探した。

欲しいものを探すことすら、めんどうに感じた。
何でもいいわけじゃない、いくらでもいいわけじゃない。
だから、探さなきゃいけない。

欲しいものがなかったから、探すことがなかったから、久しぶりに探したら、自分の欲しいものなのに、探すのがめんどうになっていた。

そして、おもった、欲しいものがないことは、こんなにめんどうなことをしなくていいことなんだと。

「 不便だから、解決するために欲しいものを探すのに、その探す行為自体が不便だった 」という気付きである。

私は、今「 欲しいものがない 」という便利さを享受している。

物質的豊かさの向こう側は、物質を欲することができない環境で「 欲しいものがない 」という快適さだった。

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