「 知識が必要 」という正しさへの反論

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「 知識が必要 」という正しさへの反論

2022/1/26

「 知る 」ってことは「 迷う 」ってことだ。
私たちは、いろんな経験をして、いろんなことを知っていく。
「 知る 」ということは「 選択肢が増える 」ってことだ。
「 選択肢が増える 」ってことは「 迷う 」ってことだ。

道が1つしかなければ、迷うこともない。道が2つだけならば、どちらかを選べばよい。3つなら?4つなら?、、、10なら?20なら?道が増えていくと、どこの道を選べばいいのか、わからなくなってしまうのだ。

選択肢が少なければ「その中での1番いい」と思う選択ができる。しかし、選択肢が多過ぎると、私たちは、すべてを同じ土俵に乗せて考えてしまって、あまりに、たくさんの情報量に頭がこんがらがってしまう。

私たちは、いつも自分にとっての1番の答えを探してしまう、選択肢の数に関わらず。それが2つ、3つ、4つとかなら、まだ、判断ができるが、10以上に増えると、その中から1番を選び出すのは困難だ。

それは、私たちは、自分の中に様々な基準を持っているからだ。その基準があればあるほど、選ぶのが困難になってくる。

例えば、お菓子を買う場合
・パッケージで美味しそうかどうか?
・値段はいくらか?
・容量はどれくらいか?
・コスパはいいか?
・カロリーはどれくらいか?
・メーカーはどこか?
・原材料は何か?
・原産地はどこか?
・加工地はどこか?

様々な基準があるが、その基準を「 気にするかどうか 」は、人それぞれだけど、その基準を「 知っているかどうか 」というのは、前提になる。知らなければ、基準になりようがない。つまり、知らないことは、選択を容易にすることになる。選択するための基準となる軸が少なければ少ないほど、選択は容易になる。逆に、選択するための基準となる軸が多ければ多いほど、選択は困難になる。

① 私たちは、学校で、知識を付ける。
② 社会で、経験を積み、知識を付ける。
③ そして、それが「正しい」として育まれてきた。

知識を付けることで、様々なことができるようになるからだ。知識なしに仕事することはできない。そして、知識の習熟が困難であるほど、仕事の難易度は増す、医者や弁護士や公認会計士である。そして、仕事の難易度と収入は、ほぼ比例する。自分の知識によって、生活の豊かを支える収入が定められる社会になっている。

一方で、知識は、完全無欠ではない。

知識という「正しさ」は弊害を生む。

私たちは、経験によって知識を付けていく、知識によって、新しい選択肢を得ることができる。しかし、それは「 選択を困難にする 」という諸刃の剣である。

私たちは、モノゴトを、片方からしか見ることができない。コインの裏表を同時に見ることはできない。だから、気付けない、諸刃の剣であることに。

あるとき、鏡を使って、コインの裏表を、同時に見たときに、その違和感に初めて気付く。

私たちに必要なのは、幅広い知識でも、たくさんの選択肢から選ぶ能力でもなく、鏡を使うことである。モノゴトを様々な視点で捉えること、様々な視点を得る術を知ること、そう、鏡を使うように。

「 鏡 」というのは、社会に当てはめると「 人 」である。

世界中のすべての人は、すべて違う。私の視点と誰かの視点は絶対に異なるのだ。誰かの視点、他人の視点を通して「 観る 」ということは、困難である。

「 客観的に見ろ 」という言葉が溢れているのは、言われてもできないからだ。

知識への扉は誰にでも開かれている、知識は誰でも得ることができる。しかし、客観的視点は、誰でも得られるモノではない。だからこそ、客観的視点が武器となる。

私たちにとって、知識による選択肢を持つよりも、客観的視点というメガネをいくつ持てるかが、真の意味での教養である。

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