興味の創成と喪失

湯浅

興味の創成と喪失

2022/4/26

興味の発生

ないからある:0 → 1
あるからない:1 → 0
無から何かを生み出すこと、在るものを失くすことは、簡単じゃない。

興味がないから、興味がある状態までは、簡単じゃない。

キッカケがいるのかもしれない。

あるときから、何かのキッカケで、だんだんと興味を持つ。

一方で、だんだんと自然に興味がなくなっていく。

興味を持つこと、興味ってなんだ?

  • 「 知りたい 」という好奇心である。
  • 「 カッコよくなりたい、かわいくなりたい 」という願望である。
  • 体験して「 おもしろい、楽しい 」という感情である。
  • 「 美味しい 」という感覚である。

何かしらの自分の気付きに基づいて興味が発生する。気付きならば、それはキッカケとなる。気付きは、他人から影響を受けることや、実際に自分が体験したことから、派生する。

興味の種類

他人から映画や漫画のおもしろさを聞いて、興味を持つ。かわいくなりたくて、化粧に興味を持つ。キャッチボールをやってみて、野球に興味を持つ。自然と興味が発生するので、自然的興味 と名付けよう。

一方で、「 興味を持ちたい 」という意思から発生するものを 意識的興味 と名付ける。

それは、どういうことか?

好きな人の興味があることについて、仲の良い友人に対して、相手の興味があること、趣味について、自分も興味を持つことができれば、一緒に楽しむことができる。相手の趣味を分かち合うことで、相手のことをもっとよく理解できる。自然というよりも、意識的に興味を持つ、相手の興味に合わせるといった形の興味が、意識的興味である。

人は、自分が興味があること以外、興味はない。

意識的興味は、自然じゃないので、意図的に自分を方向付けるので、簡単じゃない。興味ないものに興味を持つようにする。口で言うほど、簡単じゃない。勉強や仕事は、興味がなくても、取り組むことはできる。「 興味を持つ 」というのは、その先だ。興味がないのに、興味があるフリをしてもつまらない、互いに分かち合い、共感することはできない。

勉強や仕事は努力することができるけど、興味は「 努力したからって興味が持てる 」とは限らない。

「 興味を持つ 」という意識をコントロールすることはできない。

だから「 興味がある 」ということは、実は、とてもすごいことなのだ。

興味の創生

私の親友である太一と石橋との共通の興味を例にあげよう。

・私と太一は、ビジネス・金儲け
・私と石橋は、食事・料理
・太一と石橋は、スポーツ全般

それぞれの分野において、互いの中で、うまく分かれていた。しかし、太一が、料理に興味を持ち始めた。これまであった不文律の境界を侵食し始めた。私も、越境のタイミングが来たのかもしれない。スポーツ全般の中でも特に、太一と石橋が好きな野球について「 どうしたら、興味が出るのだろう 」ということに対して、レクチャーを受けた。

  • 大谷選手
    ある一選手にフィーチャーして掘り下げていく中で、人物から、対象を拡大していく。
  • マンガ
    自分が好きな分野の中で、野球というカテゴリへと促す。
    野球から入るのではなく、マンガから野球と入ることで、最初のハードルを下げる。
  • ハマスタ
    臨場感を味わうことで、野外・開放感・ビールといった環境を楽しむことから、その中の一部として野球を捉える。
  • 草野球
    実際に野球をしてみて、体を動かしてみて、体験することで、楽しむ。
    内在的なプロとしての素質に気付き、驚きや関心へと向かう。

レクチャーの内容である。「 野球に興味がない私が、私がどうやったら興味が持てるか 」という思考実験の結果である。

意図的に「 興味を持とう 」としたときに、どうやって、興味を意識に掘り起こすのか?その術である。

興味がないことに対して「 興味を持つ 」というようなことも、協力することで、その手法を見出すことができた。

3人集まれば、文殊の知恵
https://junjourney.com/extension-of-existence/

興味の喪失

人は、自分の興味があることに対して、何の疑問も抱いてない。不思議に思わない。でも「 興味を持つ 」ということは、意図的に制御できない、とても、難しいことだった。

興味を持つことが難しかったとしても、それを打開する具体的な手法がわかった。

  • 逆に、あるからない
    1 → 0 への過程は、どうなんだろうか?
興味があることも、自分の趣味嗜好が変わって、環境や状況が変化して、興味がなくなっていくことがある。

モテたい、自分を着飾りたい、他人によく思われたい。そういう気持ちがあるから、服を選び、服を買う。時計や靴にこだわる。

しかし、物が制限された状況で過ごすことで、バックパックで世界を周ることで、本当に必要な物に気付く。人が生きていくために、最低限必要な物が厳選される。バックパックに入らない物は、本当は必要じゃないことが、わかってしまう。

もう、物への興味は、ない。

「 物という物質は、心を豊かにするんだ 」と信じていた。
物は物でしかない。
物は他人への見栄でしかない。

  • 物に魂は宿らない。
  • 物は経験価値を生まない。

その認識は、物、物欲という欲求からの解放ともいう。

服への意識

服は他人への見栄から、他人を不快にさせない清潔感へとシフトした。だから、服は同じ物でいい、高くなくていい。お金があるように見せるために、高い服を買って着ても、自己満でしかない。

他人は自分を見ていない。

他人も自分を見るので精一杯だ。見栄とは自意識過剰に過ぎない。誰も見てない。

  • お金持ちは「 お金はあるけど、買わない 」という選択ができる人なのだ。
  • 「 見栄ほど、お金を溶かすものはない 」と知っているのだ。

だから、見栄じゃなくて、服を買う。

どうやって?

私たちは、不快には、敏感だ。汚い、臭いに敏感だ。

  • キレイ、カッコいい、かわいいは、人によってそれぞれの価値観であるから、一定の何かがあるわけではない。
    あなたのカッコいいは、誰かのダサい。
    あなたのかわいいは、私のかわいいじゃない。
  • 一方で、汚い・臭いという不快は、みんなに共通だ。
    だから、不快を避けた清潔感のある服を着る。
    値段じゃない。
    自分の体型に合った、汚れていない、いい香りのする服を着る。

見栄をまとった服への興味はなくなり、服は清潔感という対象へと変換した。服という物に興味はなくなった。誰かが毎日「 これを着なさい 」と出された清潔感のある服を何も考えずに着ることが理想である。

物への興味の喪失という点の本質を捉えるならば、裸が最適解である。

寒さを防ぐという機能以外では、服は他人への目線を気にする自意識の現れでしかない。

ただ、裸は、世界が許さないし、他人に不快を与えるから、服を着ているに過ぎない。

服への興味の喪失は、裸へと辿り着いた。
「 世界を数枚のTシャツと海パンで周る 」という原体験が、そこにはある。
何を着るかより、どこで何して遊ぶかしかなかった日々であった。

恥ではない、服を着る理由と何か?
喜怒哀楽という人間が本質的に持っている感情とは、全く異なる社会的感情が、恥というものなのだ。恥とは、社会生活の中で育まれた知識である。

興味とは重力

興味の創成や喪失についての思考で、興味という概念が立体化したように感じる。二次元から三次元への変容である。

私たちは、人生の多くを、興味という重力を引っ張られながら、進んでいる。

そして、その興味の正体も知らずに、これまで生きていたのかもしれない。

言葉を、言語化すること、形にすることで、そのあやふやなものの姿を捉えることができる。

言葉こそ、人に与えられた最強の武器
言葉で人を殺すことも幸福にするのも可能だ。
だから、私は、言葉が、うまくなりたい。
言葉で、世界を表現したい。

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