【本要約】[ 絶版本1976年初版 ] 危機の構造 ( 小室直樹 )

【本要約】[ 絶版本1976年初版 ] 危機の構造 ( 小室直樹 )

2021/12/26

概要

日本社会が、直面せざるを得ない危機の本質を、その社会構造にさかのぼって科学的に解明する。危機の構造が、時代を超えて、日本社会にそのまま当てはまるのは、日本社会が、本質的な部分で変化していないからだ。
日本の危機の本質とは、構造的アノミーである。

構造 … 社会の骨組み
アノミー … 社会的規範が失われ、社会が乱れて無統制になった状態、無規範

構造的アノミーは、日本における構造と組織との矛盾の産物である。

構造的アノミー
・日本社会構造の奥底で絶え間なく拡大し、再生産されている。
・社会組織の隅々にまで浸透している。
・爆発までのエネルギーを蓄積している。

日本が「豊かな社会組織である」というのは表面上の見かけに過ぎない。その奥底にある社会構造になると、思考や行動様式や集団構成の原理は、戦前と全く変わっていない。この社会組織と社会構造の矛盾に危機が潜んでいる。

① 日本人は「外部環境の変化そのものを危機」と捉えている。
② 実際には「危機が日本社会に内在」している。

「外部環境の変化に適応しよう」とすればするほど、問題が深刻になる。ここに危機の本質がある。

構造的アノミー

アノミー出現

敗戦から30年で経済復興を遂げ世界トップクラスの経済大国になった。

① 国民のエネルギーは、経済万能主義、金権絶対主義のエネルギーだった。
② 国民のエネルギーは、アノミー ( 無規範 ) を生み出し、社会構造の末端にまで及んだ。
③ その結果、日本を破局に向けて邁進させるようなメカニズムが生まれた。

そのメカニズムとは何か?

矛盾から生まれた構造的アノミー ( 無規範 ) である。

アノミー分析

社会的現実を科学的に分析し、この分析に基づいて、制御する。

民主主義の行動様式の特徴は、制度を「与えられたもの」と捉えず「人が作ったもの」として捉える

  • 人が作ったものだから、人の行動によって変えられる。
    制度も法律も慣行も、社会の機能的要請に基づいて変更したり、新しい解釈を与えることができる。
  • 日本においては、制度や慣行は、人が社会の機能的要請に基づいて変更すべき対象ではなく、不動のモノである。
    不動のモノは、規範性を持つから、制度や慣行の中で自制してしまう。

日本人は、自らの意思決定による態度ではなく、自分の帰属する集団の要請によって「できる限りその要請に忠実であろう」と行動する過程の中から、自分の態度を示す。

習慣は第二の天性である。

日本人は、社会的慣習の中で身につけた習慣によって行動する。

【戦争】
① 誰もが戦争には「反対」しつつも、この反対意思を明確な形で表明することはない。
②「集団の要請」に無意識的に引きづられていった。
③ 気がついてみれば、日本が戦争に突入していた。

日本は、集団の要請という錦の御旗のもとに明確な個性が埋没する、全体性の集団である。

高度経済成長という社会変動は、社会の隅々にまで、それ以前とは全く違った異質のものを残した。しかし、日本人の行動様式は、構造的に「個人からなる集団の機能的要請に基づくものであること」が根幹にある。このギャップが、危機の根源である。歴史は常に現代史である。

  • どんな現象でも、日常化してしまえば「当たり前」になってしまって、驚く能力を喪失する。
  • どんな大事件でも、起きてしまえば、なんだか必要性があったような気になる。

これが、モノゴトの本質を見失わせる最大の原因のひとつである。

  1. 私たちは、過去十数年の変化が「いかに凄まじいものか」を驚くことから学ぶ必要がある。
  2. 急激な変化の渦中にいる者には実感することが困難かもしれない。
  3. どんな急速な変化も、日々の生活の中では、徐々にしか起こらないから、体得は難しい。

ナチスを生んだ社会的条件は社会の底辺におけるアノミー ( 無規範 ) であるとされている。無法者や落伍者といった社会から排斥される異常者の集まりである。ナチスを生んだアノミーは、時代と場所を変えて、日本社会の中枢となるべき善良なる市民の中に浸透していき、アノミーは社会中枢を構成するエリートまで浸入しつつある。

企業の構造

【エリートの行動原理】
① 自分たちこそエリートであり、大多数の国民とは根本的に異なる。
 日本社会の運命は、自分たちエリートの努力にかかっている。
② 努力は「特定の行動」という形でなされる。
 「特定の行動」に全身全霊を打ち込む。
 「特定の行動」と直接関係のないことは一切無視する。
 「その他の事情」は、予定調和の鉄則で、うまくいき、日本社会は安泰となる。
③ 「特定の行動」こそが肝要なのであり、成果は問題にされなくてよい。

この行動原理は「盲目的予定調和説」に支えられたものである。エリート意識に基づく盲目的予定調和説こそ、共通にみられる精神の因子である。この盲目的予定調和説こそが、個人の努力も虚しく、日本全体をまっしぐらに破局へ向かって駆り立てる原動力なのである。

盲目的予定調和説を奉ずる限り、各機能集団間の機能的対立は看過され、自己が遂行する特定の技術のみが信仰されることになる。科学的な分析を欠く技術信仰は、当事者の意図や努力とは全く無関係に、意図とは反対の結果を生じ、破局に向かって邁進する。

共同体のリーダーが、技術信仰によって決断するとき、無責任な体制が出現する。リーダーの任務は、予想し得ない事件への対処であり、新環境への適応である。

日本のような高度管理社会において、行動様式は、すべての組織の構成員に普遍化し、プロトタイプ化している。

機能集団としての共同体が、人間の作為の産物であることが忘れられ、自然現象とみなされる。

  1. 共同体が各構成員のパーソナリティを吸収し尽くすことにより、共同体独自のサブカルチャーは、ますます深化する。
  2. 構成員のパーソナリティ構造まで、サブカルチャーに従って再編される。
  3. 外部に対する関心を喪失するのと比例して、構成員の関心は、共同体内部のみに集中する。
  4. 共同体構造は、自然現象のごとく、不動のモノに見えてくる。
  5. 共同体における慣行・規範・前例は、意識的改正の対象とはみなされず、無批判の遵守が要求される。
  6. 共同体の機能的要請は絶対であり、全構成員の無条件の献身が要求される。
  7. 自分が所属する機能集団の機能的要請は絶対視される。
  8. 機能的要請を遂行するための技術は、社会分業における役割遂行の手段とはみなされず、ただ、崇拝される。
対象の本質を、自分の世界だけに囚われて解釈してしまう。それによって、ただひとつの解釈でしかない事象が、自己目的化してしまい、盲目的になってしまう。これは、当事者だけの問題ではなく、日本の社会構造に問題がある。

現代社会のように、機能分化した社会では、社会が発展していくかは、各機能集団間のコミュニケーションと協働が必須である。逆に、各機能集団間の協力がなければ、社会の発展は望めない。

エリートが技術を信仰して決断したとしても、それは、自分が所属する集団の機能的要請に過ぎない。自分の共同体の特定した視座から見られた社会認識である。特殊な決断であるにも関わらず、無意識である。したがって、この決断による責任が背後に押しやられ、意識にのぼらない。

軍国主義による破局は戦前だけのことではない。軍国主義は特定のイデオロギーではない。イデオロギーではなく、日本独自の行動様式の特殊的表現が、軍国主義であったに過ぎない。戦争がなければ経済があると衣替えしているに過ぎない。同型の行動様式の異なった状況下における表現の相違に過ぎない。そこには、なんら内面からの原理的行動変革は見られない。

社会現象分析

情報分析

社会全体の行動様式は、社会を構成する各個人の意思だけではなく、システム全体における構造によって規定される。
  1. 科学的推論は、全体を見通し、要因間の相互作用を考慮に入れ、体系的分析をする。
  2. 科学的推論のメリットは、予期せざる結果の説明である。
【社会現象を、科学的に分析するときの注意】
・行動している人々の意図が、そのままストレートに実現されるとは限らない。
・現象は、無限に波及を繰り返し、フィードバックしてくる。
・行動者の意図よりも「行動のパターンそのもの」「波及過程のメカニズム」「社会構造の分析」が重要になる。

現代においては、情報を制する者は社会を制する。

  • 新しい激動の時代に対処していくには、情報の制御こそが中心課題となる。
  • 情報処理の中で、最重要な要素が、情報操作である。
  • 情報操作は、費用対効果が高い。
  • 情報操作能力があってこそ、情報処理を自由自在に操作できる。
情報操作 = 期待値コントロール

情報操作能力の他には、
「物事が示す兆候から、本質を抽出し、本質に基づいて、行動様式を再編させてゆく能力」があげられる。この能力を学習能力という。学習とは「行動の変化」「新行動の生成過程」のことである。

日本では政治と経済とは分かれておらず、法則性もなく複雑に絡み合っている。経済危機は政治によってコントロールされることなく、政治の危機に発展し、政治体制の崩壊へと導かれるだろう。

  • 重化学工業は、資源のほとんどを海外に依存する日本の基幹産業として相応しくない。
  • 情報産業は、ほとんど資源を必要としないから、海外の事情に左右されること少なく、新時代における日本の基幹産業として相応しい。

国家的規模において有力な情報産業を育成するためには、成人教育システムを含む教育大改革、研究体制の整備がなされなければならない。( 本書『危機の構造』初版1976年 )

そして、ジャーナリズムが、その監視の役割を果たす必要がある。しかし、実際には困難であろう。

自由言論分析

日本人特有の情緒倫理と、人格と意見とを分離して考えられない思考様式がある。

  1. 日本人一般の感情に逆らうような主張は、それだけで「悪」とされる。
    非難は、その主張に留まらず、人格否定にまで及ぶ。
  2. そのような主張は困難を極める。
  3. 非難による評価が規範性を獲得することによって、社会的事実となる。
  4. 社会的事実は、個人を外面から拘束するだけでなく、内面においても自発的に自己規制がなされる。
  5. 非難による評価と自己規制の基準が情緒であることにより、客観性はなくなり、自己規制は際限がなくなる。
  6. 自由な言論は消滅する。

このような情緒倫理と人格と意見の未分化に支えられた言論は、世論の場において弱者の立場や権利を守るために著しく不適格である。

「発言の社会的責任」の名の下に、異なった意見を持つ者が、自由に討論する機会が喪失した。

このようなジャーナリズム精神の欠如は、日本の構造的問題である。
・腐敗を、自由のために支払わなければならない高い代償として、評価する者はいない。
・有能な政治家たる田中角栄を、金権政治を必要悪として、弁護する者はいない。

危機の時代に対処するためには、多くの意見に対して「言わせるだけ言わせてみて、その後に討論しよう」という「ジャーナリズムの前提が不可欠である」にも関わらず、それは、現代日本には存在しない。ジャーナリズムが機能を果たさないことが、日本の危機を絶望的にしている。

国際社会分析

国際社会のメカニズムは、すべてが他のすべてに依存しているから、一箇所に起こった変化が、相互関係を通じて無限に波及していく。

日本が、どれほど平和であろうと、それだけでは、日本は安全では足り得ない。見知らぬ外国の間の平和をも含めて、世界全体で平和があって、初めて日本の安全は保証され得る。

日本は、米ソ中とは違って、自給に近い経済システムを持つ国家ではない。生命線は、世界全体に張り巡らされている。資源の乏しい日本の経済的生命線は、丸裸のまま晒されているに等しい。日本国民は、全世界に情報網を張り巡らし、情報を科学的に分析し、機敏に行動を起こさなければ、安全が保証されない。日本経済が「必要とする資源をいかに確保するべきか」という問題においての国防が必要になる。

・日米間の危機において、日本の国防はどうなるのか?
・実際に日本が外国軍隊の攻撃を受けた場合、アメリカ軍は日本を守るか?

政治力学上は「アメリカが出兵してくれるかどうか」という点に疑問があれば、それで十分なのだ。それだけで、日本は完全に安泰なのだ。アメリカとの軍事衝突の危険を犯して、どこの国が日本に攻撃をしかけてくるだろうか?

経済分析

モデル化

・経済発展は、政治・外交・社会・文化・学術などとの総合的協働のもとで有効となる。
・経済偏重そのものが、経済の危機を生む。

「科学的モデル構築の要諦は現実の単純化にある」のだから「単純化された仮説の上に立つ」ということ自体は問題ない。ここで重要なのは、現実の中で「何を重視して抽象し、何を無視して捨象したか」について正しく認識する。単純化された前提の上に立つ理論が「現実そのものである」と錯覚してしてはならない。

【経済学における単純化された前提】
・経済学の特殊な行動様式に関する仮定である。
・経済現象は「その他の社会現象から分解可能である」という仮定である。

経済学は、経済人という抽象的人間を仮定し、その経済人の行動について研究する。そもそも経済人という考え方が、高度な抽象そのものである。

現代経済学の始祖が、その非現実性を肯定している。非現実性というだけで、現代経済学の価値が失くなるわけではない。科学と同じであるからだ。科学的方法の特徴は、森羅万象のすべてをありのままに把握するのではなく、その一部分を強調して抽象化し、他の部分を無視して捨象することにある。

科学的理論も、非現実性の中の産物でしかない。

これは科学的理論の弱点ではなく強みである。科学は、現実の単純化という利点を活用できるからこそ、進歩が可能なのだ。

物理学であろうと経済学であろうと同様である。

  • 物理学は、質点の力学 ( 質点というものは現実には存在しない ) から始め、やがて、質点系の力学、剛体の力学、液体の力学……へと進む。
  • 経済学では、マルクスは、資本論の第一巻第一章を商品の分析をもって始め、やがて、交換、貨幣……と新しい現実的な要素を追加していって、第三巻第二十五章における「諸階級」をもって巻を閉じる。

経済分析

現代経済学は、非現実的な仮定にありながらも、価値を有する。
非現実的な仮定が、資本主義的な特徴を抽出した上で、理論を展開するからである。

例えば、資本主義的社会の行動様式は、消費者としての経済人は効用を最大にし、企業としての経済人は利潤を最大にする。

前資本主義的社会における行動様式とは全く異なるタイプである。

例えば、徳川時代、戦前などにおける日本の農村共同体などを想起すれば容易にわかる。そこにおける消費者の行動様式は分をわきまえることであり、効用の最大など思いも及ばないことである。もし、そんなことをすれば、たちまち村八分にされてしまう。

その時代の人々にとっては、消費は選択の結果ではなく、一種の社会的儀式である。また「利潤最大」行動についても、事情は全く同様である。

「労働力を利潤の最大という目的のために合理的に組織する」ということ自体、資本主義的なことであり、前資本主義的社会においては、考えられないことである。即ち、前資本主義的社会においては、人々の行動様式の基本原理は、伝統的な行動のパターンを守ることであり「特定の目的のために合理的な組織をつくる」という契機は存在しない。

あるアメリカの経済学者が、インドの地域社会の生産指導をした。その結果、その社会の生産力は2倍になった。そこで、その経済学者は「住民の所得は2倍になるであろう」と思ったが、もとのままであった。理由は、住民が、従来の半分しか働かなくなったからである。

現代経済学の諸前提は、非現実的なものではあるが、資本主義社会の本質を突いているので、大きな価値を持つ。科学とは非現実性の前提にある。

異なる資本主義

経済学が、現実分析における有効性を喪失した理由は、研究対象とされる現実の社会が「資本主義と大きく異なった社会になってしまった」という点にある。

「日本も、欧米も、同じ資本主義だ」と考えている。しかし、同じ資本主義といっても、日本と欧米では、江戸の幕藩体制と封建体制くらいの相違がある。封建という概念は西洋史研究において作られたものであり、江戸時代の日本の制度とは、ストレートに対応しないので、幕藩体制という独自の名が必要となる。同様にして、現代日本の経済は「資本主義以外の何か」という見方も考えられるが、議論が発散するため、「日本は資本主義であるが、欧米と異なった資本主義である」と捉える。

資本主義は、労働と労働力が分化し、労働力市場が成立し、生産者と生産手段の分離にある。

この定義では、近代資本主義と似ているものを区別できる。単に利潤のための生産販売は、古代から見られる。これと現代資本主義との相違が明確である。

日本の資本主義経済は、労働と労働力とは必ずしも分化せず、労働力市場は一般に成立していないし、生産者と生産手段の分離も完全ではない。したがって「資本が完全に資本家の私有物である」という社会的条件も成立しない。

労働市場における賃金は、価格機構の作動 ( 神の見えざる手 ) ではなく、企業によって給与が決められている。市場であることには変わりがないから、労働者は、自分の労働力を高く買ってくれる買い手を求めて移動が可能である。その結果、労働と職種別に形成される。

本書『危機の構造』の初版は1976年であるから、その時代から約50年経ち、日本も転職市場が繁栄してきている。一方で、50年前の労働形式で働くサラリーマンも多い。
  • 正規の資本主義
    企業は労働者のものではなく、資本家のものであり企業は資本家の私有物である。
    資本家が、労働者に対して束縛する義務は雇用契約だけある。
  • 日本式資本主義
    労働者・経営者・資本家は、企業という共同体の一員であり、行動様式は資本の論理ではなく、共同体の論理である。
    企業には、雇用契約ではなく、共同体倫理が存在し支配している。

日本の資本主義は、欧米の資本主義とは異なる。だから、欧米における資本主義をモデル化した経済学の有効性は、限定されたものとなる。

資本主義の変貌

アダムスミスの神の見えざる手
【 古典的資本主義 】
① 経済システムを構成する人々が、社会全体について考慮することなく、自己の効用・利潤の最大に行動した結果として、社会全体の効用・利潤も最大化される。
② 経済システムが自動制御系なので、経済システムを放任しておいても、社会が経済的に機能する。
③ 社会の経済的機能が満たされない場合には、政府の経済政策による制御が必要となる。
 恐慌・失業・過剰生産・分配の不平等
④ 政府の経済政策による制御ができなくなった場合、経済システムが崩壊する。
社会
・経済的機能 … 経済システム
・政治的機能 … 政治システム
古典的資本主義
① 経済システムは自動制御システムである。
② 自動制御システムを前提として政治システムがある。
・経済は、政治権力によって支配されない。
・社会の経済的機能は、自動的に、政治的機能を達成する。
資本主義社会の変貌
①システムの自動調整メカニズムは機能しなくなった。
②政治権力が肥大化し、経済と政治が相関する社会になった。

政治権力が、社会制御、特に経済システムに対する制御をするためには、どうすればいいのか?

伝統主義的社会では、人々は政治権力を含めて現存の社会秩序を、自然の一部として捉えていた。
自然の一部ということは「人間の力で変えることはできない」ということである。
→ 社会秩序は「人間が作ったものであるから、変えることができる」と自覚することだ。

日本社会の構造的特色は、組織 ( 会社・学校 ) という機能集団が、生活共同体であり、運命共同体である。
構造的アノミー ( 無秩序 )
① 共同体の中で社会生活を営むことで、個人の性質が、共同体独自の文化によって形作られる。
② 共同体独自の文化が、共同体独自の論理を作り、個人の人格や意図とは、全く独立した過程を辿る。
③ 共同体の中で育まれた文化によって、個人の選択肢が作り上げられる。
「自分の自由意志」によって選択し決断していると自覚しているが、実際は「共同体の中で育まれた選択肢」に過ぎない。

私たちは「共同体の中で育まれた選択肢」であることに無意識である。

アノミー区分

欧米の近代社会では、「共同体」と「機能集団」は分化する傾向がある。
→「宗教共同体・人権共同体・地域共同体」が「会社」という機能集団とは重ならない。

■単純アノミー
①「人間の欲望は無限である」にも関わらず、常に、有限の充足しか得られない。
②「社会的歯止め」という規範が必要である。
③ 社会規範は心理的安定をもたらす。
→ 社会規範の変化によって、葛藤が生まれる状態である。

■急性アノミー
裏切りや信頼の喪失による心理的パニックが社会全体で現れる。
→ 社会規範が、全面的に解体した状態である。

■複合アノミー
① 日本における社会規範の特徴は、多くの規範システムが共存して体系化されず、バラバラのままである。= 明治国家的・儒教的・封建的な規範も、システムとしては解体されながらも、多くの断片として、今なお、日本人の行動を規定している。
② 社会規範が断片としてのみ存在している場合には、自分に都合の良い断片を選択する。
③ 社会規範は崩壊していないが、社会の方向性は個人に依存してしまう。
→ 社会全体に疎外感がもたらされた状態である。

■構造的アノミー
社会構造が、アノミーを再生産するような過程を内包している状態である。

高度成長

日本社会の作動様式は、高度成長を生み出し、物欲の意味を根本的に変化させた。

① 生活水準が低いとき、物欲は、生活必需品 ( テレビ・冷蔵庫・洗濯機 ) であった。
② 生活水準が高まるにつれ、生活必需品が普及していき、一般化していった。
③ 生活水準が高まると、物欲は、生活必需品から、社会的欲望へと変化した。
④ 物欲は、見栄が中心的役割となる。

消費者の行動
・商品の品質よりもイメージ ( ブランド ) を重要視する。
・商品のイメージ ( ブランド ) を消費する。
・「効用ありき」という思考に代わって、効用はイメージ ( ブランド ) によって創作される。

イメージの創出過程とイメージによる効用決定過程を分析しない経済理論は意味をなさない。

  1. 見栄のための物欲は、共同体内部での比較が中心である。
  2. マスコミによって作られた消費は、繰り返し宣伝されることによって、比較の基準となり、達成目標を与える。
  3. 見栄の底辺は共同体によって固定され、上には歯止めがなく上限はない。
    消費水準の上昇傾向が、構造的に内包されている。
  4. 高水準の消費は、一種の社会的義務となり、遂行を迫られる。
  5. 高水準の消費生活を維持するために、必死に労働する。
  6. 共同体への無限の献身に転化する。

このようなアノミー状況において、自己の価値を再発見するために、ガムシャラに労働する。レジャーさえも、一種の義務のごとく、ステレオタイプな行動によって費やされる。もはや、労働とレジャーとの境界は明確ではない。

社会構造

  • 社会に対して「現状はこうなっているが、これは正しくないことかもしれない」という認識を持つ。
  • 社会は、人間の意志や行動によって変化する。

社会構造も、社会組織も、人間の作為の産物であるから、いくらでも変化させることができる。そのためには、社会現象の法則性を知る必要がある。

そもそも、社会現象に法則性があるのか?

人間はすべて自由意志を持っており、自分の行動を制御している。
「自由意志を持つ人間」の社会現象に法則はあるのか?

ある。

① 意識的に「自由な意志に基づいて行動した」と思っている場合でも、それは習慣化した行動の一部である。
② 習慣化した行動は、意志とは関係なく、条件反射的になされる。
③ 日本人の習慣は、会社や学校といった共同体によって育まれている。
④ 日本人の行動は、自由意志ではなく、社会的に規定されている。

人間の意識が、その存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
マルクス

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