残酷すぎる労働者の真実~労働者と資本家のヒエラルキーは存在する
すべての人は、資本家である。
資本主義社会では、お金を稼ぐ手法は、2通りしかない。
多くのサラリーマンは、労働市場に、”人的資本”を投下して、”お金”を得る。
お金持ちの資本家は、金融市場に”金融資本”を投下して、”お金”を得る。
資本主義社会では
「人的資本を労働市場で運用するか」
「金融資本を金融市場で運用するか」
の違いがあるだけで、
すべての人は、投資家 = 資本家である。
人的資本の資本家と言われても、、??
お金持ちの資本家が羨ましいと思うなら、お金持ちの資本家になるしかない。
人的資本で、年収500万円の人がいるとして、金融資本で、年間500万円得るために必要な金額は、1億円である(年利5%で計算)。
もちろん、1億円の資本金は、元本割れのリスクがあるし、年利5%という高利率は、元本割れするリスクも相当高い。
※ここで、簡略化するため、税金を除外
1億円という金額は、年間100万円貯金して、100年かかる金額である。
お金持ちの資本家になるのは、完全な無理ゲーである。
悲観することなかれ。ここで逆転の発想である。
年収500万円の人の労働価値は、年収1億円の金融資産に匹敵するということだ。
1年の労働は、実は、1億円の価値があると考えると、何だか少し救われる。人的資本家の発想転換である。
しかし、「お金持ちの資本家になりたい」という、根本的な解決には至っていない。
人的資本家(=労働者)と金融資本家とには、資本に大きな隔たりがある。
残酷な現実である。
人的資本家の人生
若年のときは、貯金がなく、金融資本が小さいから、お金を稼ぐには、労働して、人的資本を投資するしかない。
中年になって、貯金ができて、金融資本が増えると、それを金融市場に投資する。
しかし、それだけではお金が足りず、生活していけないから、労働して、人的資本を投資する。
老年になると、誰も雇ってくれなくなり、人的資本は0になる。
あとは、これまで、貯めてきた金融資本から得る収益や、公的年金で生活する。
資本主義社会における多くの人的資本家の人生の縮図である。
老年になっても、安心して過ごせるわけではなく、死ぬそのときまで、お金の心配をしながら、息絶えていく。
人的資本家の現実
人的資本家の多くが、サラリーマンだとすると、サラリーマンは、会社から、労働の対価に給与を得ている。
その給与は、どういう評価で決まっているのか?
それは、“仕事の能力”の評価である。
それは、『“仕事の能力”は、“個人の属性”と関係ない。』
だから、『評価は、“個人の属性”とは無関係に、“仕事の能力”のみによって判断されなければならない。』という論理である。
“仕事の能力”によって、評価されることが、正当とされるのは、本人の努力次第で、“仕事の能力”は、上げることができるという前提がある。
“仕事の能力”が、“個人の属性”と同じように、先天的なモノだとしたら、“仕事の能力”で評価することは、差別となってしまう。
“仕事の能力”は、労働市場では、「学歴」「資格」「職歴」で評価されることが多い。
実際には、教育によって、知能は向上しない。努力によって、知能は向上しない。知能は、ほぼ遺伝の影響である。
だから、努力によって、「学歴」を手に入れることができない。
「学歴」がないので、高収入な企業や職種に就くことができない。
そして、労働市場で価値のある「資格」や「職歴」も手に入れることができない。
知能は、“個人の属性”である。
知能によって、「学歴」は決まる。
「学歴」によって、“仕事の能力”は決まる。
“仕事の能力”で、評価することは、「人種」で評価することと同じことである。
“仕事の能力”で、評価することは、本来的には、差別なのである。
それを認めてしまえば、日本の資本主義社会が、崩壊するから、誰も認めはしないが。
人は生まれながらにして、江戸時代の身分制度のような明確なヒエラルキーに支配されている。
それが、人的資本家(=労働者)と金融資本家との差である。
国や政府や政治家が、公にしない事実である。
残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法
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