【本要約】「働きたくない」というあなたへ

【本要約】「働きたくない」というあなたへ

2021/5/17

「働きたくない」という本を読んで、その内容に湯浅的見解を示す。
湯浅的見解は、自分の思考を可視化し、自己理解へとつながる。

概要

人は、家族や友人のように好きでつながっている人間関係だけでは生きられない。社会とのつながりが必要である。人との絆が必要である。必要とされたり、役に立てたり、貢献したり、協力し合ったりして、人と人はつながり合って生きていける。

仕事を通して、社会に貢献し、その対価としてお金を得るだけでは、人は生きられない。社会からの信頼や必要性、役立ち感も必要だ。

社会貢献や社会からの信頼という絆によって、自分の居場所が形作られる。

仕事は、社会と人をつなぐ役割をする。

働きたくないなら、それでもいい。

自分が自立して生きていくためには、お金と愛がいる。

「お金と愛を、自分で創意工夫して手に入れて、生きていける」というのが、自由だ。

湯浅的見解

お金さえあれば、自由だ。

経済的自由という言葉があるくらいだ。

自由の土台は、やっぱり、なんといってもお金だ。大体のモノはお金で買えてしまう。

お金で愛は買えるとは、言い切れないが。

  • お金があれば、買える愛もある。
  • お金がなくて、壊れた愛もある。
  • お金があったら、壊れなかった愛もある。

愛は見えないから、本当のことはわからないが。

愛は嘘を付くけど、お金は嘘を付かないのは、事実だ。

  • 愛は、感情で見えない。
  • お金は、事実で数字で見える。
  • 感情は、変化するけど、数字という事実は、変化しない。

愛なんて不確かなモノを信じるから、絶望するのだ。愛に頼らず、愛は失われるかもしれないと、おもう。そしたら、愛を丁寧に扱うことができる。愛とは、そのくらいの距離の方がいい。

おたより1

数日前に友人は、こんな生活は嫌だと、私の前で泣きました。

優秀なご主人と優秀な息子さんと一緒に、キレイな新しい家に住み、おいしい物を食べ、キレイな格好をして、たくさん旅行をしている裕福な専業主婦をしている彼女は、「不幸といっても分かってもらえない」けれどこんな生活は嫌だと泣きました。

仕事をしたいと泣きました。

無理かもしれないけれど、自分のお金をもって自立したいと泣きました。

湯浅的見解

「仕事をしたい」と泣いている自分に酔っているだけだ。「幸せだ」と言っているだけだ。

本当に仕事がしたいのなら、友人の前で泣かない。仕事を探す。友人には、「仕事がしたいけど、何かない?」と聞く。日本には仕事が溢れているのだから。

「泣くほど、幸せで満たされている」という、ただのマウンティングでしかない。

行く場所と帰る場所

人には、行く場所と、帰る場所が必要だ。
人には、帰る場所はあるからこそ、行く場所がないというのは、耐え難い苦しみである。

湯浅的見解

確かに、行く場所は必要だ。

行く場所があるから、帰る場所が意味を持つからだ。行く場所がないと、帰る場所に留まり続けることになる。

家に、ずっとなんか居られない。スマホの中に全ての娯楽は詰まっているとしても、スマホで料理を配達できても、スマホで仕事ができても、家で全てが完結するとしても。

我々の祖先は、ずっと狩りをしてきたし、その後は、農耕をしてきた。人間はそんなにすぐに進化しない。だから、家で全てが完結するとしても、外に出たい本能がある。ずっと家に居たら、体調を崩す。

社会

社会は、自分から求めないと何も得られない。自分から求めるのは、辛く、傷付く。

湯浅的見解

社会とは何か?

社会とは人間の集団であるから、突き詰めると、個人になる。

自分から友達を誘って断られたら、確かに辛い。傷付く人もいるだろう。

でも、それでいい。

人間関係も、新陳代謝が必要だ。何かを得るためには、何かを捨てなければならない。

だから、傷付かなくていい。
その人間関係は、清算されたとしていい。
そこから、また、他の新たな人間関係がはじまるのだ。

ミニマリストは、目に見えるモノを少なくするだけでない。不要な人間関係も少なくすることで、より豊かな暮らしを手に入れる。

おたより2

仕事をして収入を得たり、仕事で社会と関わらないと生きにくいことは、みんなわかっている。しかし、社会とは理不尽なものだから、あきらめている。そんな中で、理想と現実のバランスを測りながら、生きていくための手段として、仕事をしている。

仕事はそれなりでいい。仕事よりも、自分の好きな事や、大切な人と過ごす事に、時間を割きたい。

湯浅的見解

理想と現実のバランス

  • 理想とは、自分の好きな事や、大切な人と過ごす事
  • 現実とは、お金を稼ぐための仕事

そうか、仕事は、お金を稼ぐための手段と割り切って、それ以外の時間の余暇に、理想を求める。

仕事は、お金を稼ぐための手段と割り切るならば、最適解は、最小の労働時間で、最大の給与を得られることだ。それには、それなりの仕事をしていては、辿り着かない。でも、誰もが、最適解を求めていないようだ。「それなりの仕事をして、それなりの給与という解答でいい」という人もいるようだ。

最適解を求めるのは、生き方だった。自分が最適解を用意したら、その最適解に辿り着くために働くのが、仕事の流儀だった。

仕事は何のため?

仕事を3つに分けて考える。

  • お金のため
  • 人のため
  • 自分のため
湯浅的見解
  • お金のため
    労働の対価としての収入を得るため
  • 人のため
    人の役に立って社会貢献するため
  • 自分のため
    自己表現をして自己実現をするため

「仕事は、お金のためだ」とおもっていたけど、「人のためだ」と、最近、知った。

「自分のため」

仕事とは、自己表現なのか。
自己表現の種類が、職業になるのか。

合コンの自己紹介では、職業は必須だ。

自分は、何をして稼いでいるのかは、自己表現のひとつなのか。

確かに、職業は、「自分が普段どこで何をしているか」を、相手に伝える効果的な方法だ。

職業には、自分の価値観が現れている。

無職は、社会からの孤立を表している。

社会的孤独という価値観である。

湯浅的見解2

仕事は、ひとつの自己表現である。

  1. 自己表現によって、自己実現する。
  2. 自己実現が、社会貢献の役割を果たす。
  3. 社会貢献は、人の役に立つことである。
  4. 人の役に立つことは、お金を稼げる。
  5. お金を稼げたら、それは仕事になる。

自己表現による自己実現を、リンクさせて、社会貢献に当てはめていく。

この作業が、自分の仕事探しの核である。

それが一筋縄でいかないから、何度も失敗するのか、なるほど。この失敗を繰り返して、バチっとリンクしたら、ハマるんだ。フローに入るんだ。上がれるんだ。

湯浅的見解3

人間は、社会性の生き物である。

社会貢献は、社会との繋がりであり、社会からの承認である。

人間は「社会から承認されたい」という本能がある。

社会から承認されることは、自己承認と同義だ。

だから、人間は、自己承認欲求を満たすために、社会からの承認を得るために、社会貢献をする。

  1. 自己承認とは、社会からの承認である。
  2. 社会からの承認を得るためには、社会貢献が必要だ。
  3. 自己承認欲求は、社会貢献を促す。
  4. 社会貢献は、人の役に立つことである。
  5. 人の役に立つことは、お金を稼げる。
  6. お金を稼げたら、それは仕事になる。

自己承認欲求を、リンクさせて、社会貢献に当てはめていく。

仕事は不自由

何かをするときに、人は、「自分の自由意志でしている」とおもいたい。人は、「自分が拘束されてしている」とおもいたくない。

一方で、「自分が拘束されている」と認めることで、救われることもある。

  1. 仕事は、人を拘束するモノだ。
  2. 仕事は、人を自由にしない。
  3. 仕事の成果が、対価として、お金になる。
  4. お金が、自由をもたらす。
湯浅的見解

拘束されたくないから、仕事をしない。

「仕事は、人を拘束する」と定義付けるなら、仕事はできない。

「仕事は、人を拘束する」というのは、サラリーマン的思考である。

湯浅は、何かに拘束されるのは、嫌だ。拘束されるのが嫌なら、拘束する側にならなければならない。人を拘束する側にならなければならない。

仕事によって、人を拘束する側にならなければならない。

経営者になるしかない。

自分の価値観

自分だけが大事にしたい価値は何か?
それに基づいてどういう風に社会と向き合っていけばいいか?

湯浅的見解

自由である。

自分の人生、自分の好きに生きたい。

社会との関わりは、仕事のためである。経済的自由を手にしたならば、社会との関わりは、必要ない気がしている。

そもそも、「社会との関わり」とは何なのだろうか?

社会とは何か?社会とは人間の集団であるから、突き詰めると、個人になる。個人との関わりである。この哲学は、経済的自由を手にしてから考えよう。

社会的教育

  • 男性は常に、「自立して生きなければならない」という社会的矯正を受けて育つ。
  • 女性は常に、「依存して生きるのが良い」という価値観に基づいた矯正を受けて育つ。
湯浅的見解

女性に「家庭に入る」という選択肢はあっても、男性に、そんな選択肢は、ほぼない。俺も、自分自身で「家庭に入る」ということを考えたことはなかった。

それは、そういう教育を受けて育ったからに他ならない。

自分の思考は、自分だけのモノのようで、実は、学校という教育や、社会によって、形作られている。

学校教
世界に絶対などない。何かを絶対的に信仰することを、宗教という。学校を絶対的なものとして信じている。それは、学校教を信仰していることだ。

例えば、” 家庭に入って妻に食べさせてもらう自分 ” を想像する。

それって、「俺の存在価値って、何なのか?」と自問することになる。

お金を稼げる自分に、価値があるのだから、お金を稼がない自分には、何の価値もないようにしか思えない。

イメージがわかない。

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