何もしない
2022/6/3
生きながらに背負っている重力
重力の重みに泣いたし、命の重みに泣いたし、死ぬことに泣いた
私たちは、重力のない世界を知らない。水の中に入って、体が軽くなることを知る。重力を当然と思う前は、母のお腹の中にいるときは、水の中だから、自分の体も軽かったのだ。母のお腹から出てきて、はじめて、水の外にでたら、体が重くて、びっくりして泣いた。
赤ちゃんのとき、子どものとき、たくさん泣いた、「 一生分泣いた 」とも言える。泣くことは、生まれてはじめての行為、生まれて初めての感情表現である。だから、泣くと、あの頃に戻ったような気がする。何にも知らなかったあの頃に。「 泣く 」という行為によって、心が童心に帰る。
「 悲しいから泣く 」のではなく「 泣くから悲しい 」のでもなく、ただ、泣くのだ、何も考えずに泣くのだ。
だからと言っても、私たち大人は、かんたんに泣けなくなってしまった。泣くことを我慢することを覚えて、泣くことを我慢することが日常となり、泣くことをやめたのだ。この非情な世界を憂い、あれほど泣いていたのに。泣くことをやめたら、泣くための理由が必要になった。泣くことのキッカケが必要になった。
スタートに戻る、すごろくのように。
でも、やっぱり、そんな抽象化された概念では泣けない。なぜなら、私たちは、理性を獲得したからだ。理性が感情を抑える。理性があるから社会生活が送れるが、理性があるから自分の自由に生きられないし、わがままをさらけ出せない。
- 泣くためには、人生に起こった悲しいことを思い出すしかないのか?
- 会いたくても、それが叶わなくて泣くのか?
- もう、この世界にいない人やペットや、今は会えない人を、想って泣くしかないのか?
- はたまた、映画や小説に没頭し感情移入するのか?
私たちは、大人になり成長して「 進歩している 」と思い込んでいる。私たちは、泣くことができなくなっている。赤ちゃんのときにできたことができなくなっている。赤ちゃんのときは、私たちは、言葉を話せなかった、そもそも、言葉を知らなかった。それでも、この世界を理解していった。無分別智 を持っていたのに、言葉を覚えて使っているうちに、言葉を使わずに世界を理解する、無分別智 を忘れてしまった。
私たちは「 進歩した 」とも言えないし「 退化していない 」とも言えない。
- 得たら得た分だけ失う。
- 失ったら失った分だけ得る。
人生は平均に収束する。
- 幸福なら幸福の分だけ不幸だ。
- 不幸なら不幸の分だけ幸福だ。
幸福をプラスと不幸をマイナスとしたら、平均値は0となる。
大きな幸福には、大きな不幸が必要で、小さな幸福なら、小さな不幸でいい。
- 子どもの頃は、砂をつかんで、手のひらからこぼれていくのを見るだけで、楽しかった。
- 子どもの頃は、石を叩くだけで、石から伝わる手の感触で、楽しかった。
- 子どもの頃は、水に触れて、水は冷たくて、でも、水がつかめなくて、楽しかった。
世界を知らなかったから、世界を楽しめた。
私たちは、世界を知ることによって、知れば知るほど、楽しむことを忘れていった。
- 私は、何を知らないのだろうか?
- 私は、知らない何を楽しめるのだろうか?
- 知らない何かを知ろうとして求めていること自体が、無意味なのか?
一番遠い知らない世界へ足を踏み込むことが、一番知らないへの一歩ということなのかもしれない。
知らないこそ至高
生きながらに背負っている重力のようなモノの正体は、知っていること、つまり、知識
知識を付けることは、知らないことを知っていくから「 楽しくなくなる 」ということに回帰するのか?
- 私は、間違ったことをしているのか?
- 知識を得ることは、進歩じゃないのか?
- 楽しみを、殺しているだけなのか?
世の中で、良いとされているモノが必ずしも、良いわけではない。それはただひとつの価値観に過ぎない。
悪が良くないわけじゃない。
アンパンマンはいつも怒っている。
バイキンマンはいつも笑っている。
いつも怒って過ごしたいのか?
いつも笑って過ごしたいのか?
何もしないこと
何もしない自由
何もしないことを楽しむ
何も入れない、何も出さない、スマホを置く。
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