伊達政宗像は大きのか?小さいのか? 〜 環境バイアスという思考の視点

東北旅7

「悪魔とおしゃべり」からの思考

「記憶」という資産の作り方 〜 雨の中あえてチャリで観光する
未来において、記憶という資産になるのは、非日常であり、失敗した体験であり、辛い現実である。人は金を抱えて死ねないが、記憶を抱えて人は死ねる。

2021/8/9

伊達政宗像

苦労という、大きさによって、観光地の価値は、変化する。

伊達政宗の像へと行く。
湯浅は2回目である。もう一人は、はじめてである。
伊達政宗の像は、山の高台にある。
雨の中、カッパを着て、自転車で、山の高台へと進んでいくのは、大変である。

伊達政宗の像を「はじめて」見て、一言

【もう一人1回目】
「小さい」

いやいや、そんなことはない。伊達政宗の像は大きい。銅像界の中でもトップクラスである。土台も高い。【湯浅2回目】

湯浅がはじめて、伊達政宗の像を見たときへと回想する。
バイクで2人乗りして、高台まで登ってきた。高台に来るまでの苦労はないに等しい。
だから、伊達政宗という像をフラットに評価できる。

【湯浅1回目】
「大きい」

これまで、見たことのある銅像の中で、ぶっちぎりNo.1である。さすが、伊達政宗、東北の王である。

人の評価は、個人の価値観によると言えば、一般的で当たり前かもしれない。

環境要因

ここでは、個人の価値観という評価軸ではなく「環境が評価を変容させた」と捉える。
伊達政宗まで辿り着く手段という環境が評価軸となった。

  • 雨の中、カッパを着て濡れながら、自転車を押しながら、登った高台
  • 晴れの中、バイクでスイスイと登った高台

はじめて高台に登り見た伊達政宗には、交通手段という環境のバイアスがかかる。そこで評価も変容する。

苦労したら、その分の見返りを期待してしまうのが、人間なのだ。

苦労したら小さく見え、苦労しなかったら大きく見える。
だから、伊達政宗は、大きくも小さくも見える。

ただ、そこには「良い」も「悪い」もない。

  • バイクで来た人が「大きい」と言った
  • チャリで来た人が「小さい」と言った

ただ、それだけである。

自分の評価は、自分の価値観によって為されるとおもってしまう、しかし、違う。環境によっても、自分の評価が支配されるのだ。

人は環境の生き物なのだ。

自分の評価が「本当に自分の価値観だけなのか?」「環境に左右されていないのか?」と問う。

「環境」というバイアスを体験した、湯浅は「環境」というバイアスを思考の視点・始点を手に入れた。文字で読んだ知識を実践して、体験によって、自分ごと化する。正確には、体験によって、知識が実践と相まって、自分ごと化された。

新婚旅行はパリではなく、インドへ行く
湯浅はおもう。新婚旅行でパリに行くより、インドに行った方が、2人は、つながる。新婚旅行で、インドに行って、それを乗り越えたら、夫婦は完成する。
【本要約】悪魔とのおしゃべり
自分の中にある「正しさ」を疑う。正義のヒーローはいつも怒っている。そして、悪のボスはいつも笑っている。人間が怒る理由は、相手に期待しているから怒るのだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました