悲しみの果ては、無常

湯浅

悲しみの果ては、無常

2020/10/15

悲しみの果て

プールの受付で、おじいちゃんとおばあちゃんに連れられて子どもがいた。受付の人とおじいちゃんの会話で、子どもが小学1年生だと、聞こえてくる。

なるほど、俺の娘は、小学2年生なので、今は、だいたい、こんな感じかなんだなと。
小1の女の子を見て、客観的に見れる。そんなにも時は流れたんだなと。

会いたくて、会いたくて、泣く時は過ぎた。
会えなくて、悲しくなって、気持ちが沈んでしまう時は過ぎた。

悲しみの果てとは何なのか?エレカシの宮本さんは、言っている。

悲しみの果てに 何があるかなんて
俺は知らない 見たこともない
ただ あなたの顔が 浮かんで消えるだろう

湯浅が思う、悲しみの果ては、” 無常 “ である。
無常:モノは変化するため、永遠に同じ状態のモノはないこと。

会いたくでも、会えないという絶望的な事実に打ちのめされる日々を過ごし続けるとどうなるか?
人は、習慣の生き物だから、なれるのだ。
絶望にも、なれるのだ、悲しいくらいに。
そうやって、人は、絶望を、無常として、生存してきた。

無常は、マイナスな時もあれば、プラスな時もある。それは平準化したら、マイナスでも、プラスでもない ” 0 ” に ” まんなか ” に落ち着く。まんなかに落ち着くのなら、人生は、上下動が大きい方が、波が大きい方が、浮き沈みがある方が、豊かである。いろんな経験をした人生にこそ、華やかさがある。平坦な人生に、華やかさはない。

って、いくら肯定してみても、それは結局は、まやかし。

涙の後には 笑いがあるはずさ
悲しみの果ては、素晴らしい日々を送っていこうぜ

って、
宮本さんは言っている。

悲しみの最中、惑いの最中

悲しい時は、本を読む、人生に迷った時も本を読む。それは、現実逃避であり、学んで人生を見つめることである。

はじめての彼女に振られて、どうしたらいいかわからない時は本を読んで、現実逃避する。

失業中に、どんな仕事をしたらいいか迷ったら、本を読んで、学んで、自分がやりたいことを見つけて、人生を切り開く。

娘がいなくなった部屋で、過ごす日々は、
何も考えずに、ただ時間を過ごした日々は、
漫画を読んでいたような記憶が、おぼろげながらある。そんな部屋から引越すまで、仕事以外は何をしていたか、ほとんど記憶がない。悲しみの最中の現実逃避は、記憶さえも奪う。

夢叶えた後に、何をしたらいいか迷ったら、本を読む、次の夢を探して、人生を思考して、幸福について思いをはせる。

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