【本要約】評価経済社会 ( 岡田斗司夫 )

【本要約】評価経済社会 〜 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている

2022/1/27

評価経済社会

分からなくなったビジネスや経済に対する答えと対処法

ネットの普及によって、知価のフリー化が進行した。
知価:知恵の値打ち、かっこよさや使い勝手の良さなどデザインや設計という知恵によってモノやサービスに付加された価値

沈没しつつある貨幣経済社会に代わって、海の向こうに新大陸「 評価経済社会 」が現れつつある。

  • 貨幣経済社会が没落する時、どんな現象が起きるのか?
  • 評価経済社会と入れ替わる時、どのように人や社会は振る舞うのか?
  • その中で、私たち一人一人はどのように生きていくのが「 新しい幸福 」なのか?

評価経済社会という新世界への海図であり、大陸の地図そのものである。

貨幣経済社会の終焉

社会変化

科学の進歩は人々の価値観を変え、社会システムをも変化させる。
② 科学が変化すれば、それにつれて社会の価値観も変わる。
③「 科学技術が、私たちを幸せにしてくれる 」とは感じられなくなってきた。
 私たちが、今、感じている違和感は、私たちの価値観が変わりつつある証明である。
 私たちは「 科学の死 」に立ち会っている。

今まで、人類の歴史を変えてきた大きな変化
・農業革命
・産業革命
・情報革命
農業革命のときも、産業革命のときも、大きな価値観の変化が起きた。
情報革命の中では社会のすべては変化する。

情報革命の成果である在宅勤務は利便性だけをもたらしたのか?

在宅勤務による仕事は、責任も結果も成果も、そして、落ち込みもすべて一人で引き受けなければならない。これまでの仕事にあった「 人間同士の結び付き 」は、煩わしく不必要に感じたかもしれない。しかし、この煩わしさから解放された代償として、先輩や上司から「 教えてもらう 」「 気にかけてもらう 」といったコミュニケーションも失われてしまった。

どんな時代、どんな社会にも、社会の共通概念である基本価値観「 やさしい情知の法則 」がある。やさしい情知の法則:どんな時代でも、人間は「 豊かなモノをたくさん使うことは格好よく、不足しているモノを大切にすることは美しい 」と感じる。

ある時代のパラダイム ( 社会通念 ) は「 その時代は何が豊富で、何が貴重な資源であるのか 」を見れば明らかになる。

それまで、豊富だったものが急に不足したり、貴重だったものが急激に豊富になったり、といった変化が起きる時、それに対応して人々の価値観が変化する。その価値観の変化によって、社会は進歩する。

「 未来を予測しよう 」とする際に、最も大事なのは「 今の時代と未来では、どんな価値観の違いがあるか 」ということをハッキリと見極めることである。

社会を構成している基本的価値観をパラダイムという。

パラダイム

パラダイムの違い
・神がそう決めたからだ
・自然法則でそう決まっているからだ

パラダイムに変化があれば、当然、社会システムや政治・経済・家庭・生活様式に大きな変化が起こる。パラダイムシフトという。そして、現在という時代は、パラダイムシフトの中に在る。現状や今後の社会を考えるためには、今、起こりつつあるパラダイムシフトを分析する。

私たちは、人類史上、2回しか前例のない大変化の時代の渦の中にいる。

あるパラダイムの中にいるとき、理性の力で、その他のパラダイムは想像することさえ難しい。

私たちは、自分自身の変化を自覚するのは難しい。

今の若い世代から観察すればいい。

30年後の価値観は、今、現在の彼らの価値観の中に芽生えているはずだ。

これからを知るには、今の若者たちの行動や嗜好を知ること。それによって、私たち自身の「 自分では気が付かない変化 」を知ることができる。

若者たちを『 彼ら 』と表現する。

私たちの中の価値観変化を客観視するための便宜的な手法である。一度、他人事として考えると、私たちの心も本音も出しやすい。私たちの中にいる『 彼ら 』= 私たちの心の中に芽生えている変化をあぶり出す。

変化は世代ではなく、時代で発生する。世代によって、発現率や深度が異なる。

21世紀は科学の時代ではなく、科学によって迷信が普及する時代なのだ。

ネットは、信じたい情報だけを毎日見ることが可能である。ネットが信じたい情報を求める人たちの気持ちを加速する。

「 自分の気持ちを大切にする 」というのは、現代の若者を語るときの重要なキーワードである。

仕事で「 安定した会社や給与が高い 」といったことを中心に考えない。「 やりがいのある仕事がしたい 」「 自分の可能性を伸ばしたい 」といった、今の自分の気持ちを大切にする。

こういった考えが主流になると、今まで考えられなかったような社会変化が起きる。

私たち自身の心の中でも、この感性・価値観は変化しつつある。

科学

私たちは、科学技術の進歩で自分たちの生活が今より便利になったり、楽しくなったりするなんて楽観的に考えられなくなった。

現実のデータより、自分の見たいデータを見てしまい、見たくないデータは取るに足らないこととして、見逃してしまわないように気を付けなければならない。

産業革命は、衣服が量産され、家電製品が開発されて便利になっただけではない。演劇・ファッション・グルメ・車・レジャーと、それまで貴族によって独占されていた特権・娯楽が大衆に開放された。

科学は、人々に娯楽を与えただけではない。
科学は、人々を市民にした。
科学は、人々の楽しみを普遍化・平等化することによって身分制度・封建制度を壊滅させた。
科学は、前世紀の貴族の特権と楽しみを市民に解放した。

科学を私たちは熱狂的に支持した。人々は、目の色を変えて量産し、目の色を変えて買い、目の色を変えて遊んだ。家の中はモノで溢れた。人々は科学至上主義であった。

私たちは、科学に多くは期待していないことに気付かなければならない。
科学は死んだ。
産業革命と同時に宗教は死んだ。

「 死んだ 」といっても、その影響力がなくなった訳ではない。それどころか、世界の大半では最大の価値観である。

人々が無批判に宗教を信じていた時代は永遠に返ってこない。

同じように科学も死を迎えている。

「 科学が私たちを幸せにしてくれる 」とは信じていない。

【 要約 】
① 社会全体が巨大な変化の時期を迎えている。
② 従来の価値観が全体として明らかに破綻しつつある。
③ 変化している価値観を特定するために、若者の嗜好を観察する。
④ 若者は、価値の中心に、自分の気持ちを置いていることがわかる。
④ 自分の気持ちが第一なのは「 既存の価値観では、幸福が追求できない 」ことが明らかだからだ。
⑤ 若者や私たちの価値観変化の中心には、私たちを幸せにできない科学と経済への信頼の喪失がある。

何が、科学を殺したのか?

科学自体の限界、今後どんなに科学や技術が発達しても、私たちの幸せとは関係ない。
  • 科学者への不信である。
    科学者もサラリーマンであり、自分の会社のために働いたり発言している。
  • 科学至上主義を切り売りするマスメディアに対する不信がある。
    科学主義を布教してきたマスメディアは、科学的な正しさよりも、おもしろい情報ばかりを流している。

マスメディアは、視聴率がなければ存在できない。視聴者が求めているモノ、視聴者の今の自分の気持ちに沿うモノを提供する。

マスメディアは視聴者の写し鏡である。

科学的な正しさよりも、今の自分の気持ちに沿うおもしろい情報へと帰着する。

経済はどうか?

彼らは「 やりがいのある仕事がしたい 」「 自分の可能性を伸ばしたい 」と考えているが「 どんな仕事がしたいのか 」という希望はない。

誰も、働く理由や働く意味を見出せなくなってしまった。働く理由や働く意味を失われてしまうと、とにかく最小労力で最大利益を上げることが唯一の回答になってしまう。

科学に対しての「 科学や合理主義は、私たちを幸せにする 」という価値観が崩れたから、科学は信頼を失った。
同じように、経済も「 一生懸命働くことが、幸せにつながる 」という価値観を、含んでいないと信頼を失ってしまう。

労働は、私たちを幸福にしてくれない。

科学的や経済的な思考はメジャーであったとしても、年寄りくさい思考になっているだろう。
・ガムシャラに働きたがるのは年寄りだけ
・医者の言うことを素直に聞くのは年寄りだけ
・テレビを見るのは年寄りだけ
という時代を迎えつつある。

今、訪れつつある社会を評価経済社会という。

社会の構成員が、その最大貨幣的利益に向かって邁進することによって安定する貨幣経済社会

社会の構成員が、その最大評価的利益に向かって邁進することによって安定する評価経済社会

パラダイムシフトの時代

時代は流れるべき方向へ流れている。それは、歴史的必然である。

人間というのは、その社会全体にあるモノ、余っているモノを、どんどん使うことを「 カッコいい、やってみたい 」と感じる。少ししかないモノ、不足しているモノを大切にすることを「 正しい、立派なことだ 」と感じる。そういう心 ( 人間のやさしい情知 ) が原動力となって、パラダイムを変化させる。

狩猟時代

モノが不足し、常に我慢を強いられる狩猟民族の文化は、モノよりも内面、精神世界へと向かう。

飢餓に苦しみながらも、有り余る時間を思索というキリのない作業に当て、モノに執着する心を蔑み、モノを使わない思想が生まれた。

こうして、宗教が生まれ、その世界に浸っていった。

狩猟時代は、飢餓が日常であった。
= モノ不足の時代であった。
モノ不足の時代は、人間は自分の内面を思考する。
※精神世界 → 宗教へと傾倒する。

農業革命

農耕時代は、食糧が安定した。

農耕を始めた当初は、狩猟民族が攻めてきて、食糧が盗まれることがあった。
旧世代の狩猟民族への対抗手段として、自衛が求められ、自衛のための職業が誕生した。
現代では身分制度と捉える風潮があるが、身分の違いではなく、職業 = 役割の違いであった。
職業の違いは、身分制度ではない。(『 七人の侍 』農民と侍より思考 )

奴隷は人権がなく家蓄と同じ扱いであった。
奴隷を使って農業をして、奴隷の食いぶち以上の収穫がなければ意味がない。
奴隷を適切に管理する必要があった。
奴隷制の誕生である。 ( 奴隷自体ではなく奴隷管理制 )

農業に必要な土地を世襲で受け継ぐようになった。
狩猟の部族という単位ではなく、農業を行う家族という単位で、社会が再構築された。
世襲制である。

定住によって、農業が定着すると、農業に必要な道具を作る職人が生まれ、道具を仕入れて売る商人が生まれた。
たくさんの職業の人がいると、争いが生まれる。争いを仲裁する職業が生まれる。
その職業の人たちが社会に対するルールを定めて、法が生まれた。
立法制である。

様々な制度によって、社会が複雑になるつれてそのすべてを統治する必要がでてきた。
狩猟民族のときの族長のような役割の人が、管理者となり権力を持つようになった。
人々を統治する王が生まれた。
封建制である。

旧世代:狩猟時代の未来を考えない生き方が、その日暮らしの餓死がすぐ隣にある生き方が、理解できなくなった。
→ 人々の価値感の変容 = パラダイムシフト

農業革命によって餓死する人が減り、人口が爆発的に増加した。農耕できる土地は限られている。人口に対して農地が不足し、再び、モノ不足の時代へと突入した。モノ不足・時間余りの世界は、再び精神世界 ( 宗教 ) へと没入した。

宗教への傾倒・モノ不足によって、古代から発展してきた自由競争の経済システムが崩壊した。
同じ商品でも相手の身分によって価格が変化した。貧乏人には無料にしたり、権威がある人には安くしたり、金持ちには高くしたり、商品の購入に交渉が必要となった。

そもそも、宗教は、古代文明から外れた、未開の地で生まれ、文明の地に輸入された。
※未開の地ではモノ不足であったため、精神世界へと傾倒し、思考し思想を育む文化があった。
・キリスト教・イスラム教の前身であるユダや教は砂漠のアラブから生まれた。
・仏教は、亜熱帯のインドで生まれた。

封建制度が整うと生活が安定していき、大衆の関心は、食糧や安全から病気や死へと変容した。そこで宗教である、キリスト教の登場である。キリスト教は病気や死に対する不安を柔らげる役割を果し、大衆へと浸透していった。

何が余っていて、何が不足しているのか?
これが切り替わると社会は大きく変化する。

産業革命

モノ余り・時間不足の状況が急スピードで発生する。
それは科学の発展が契機となっている。
科学はキリスト教から生まれた。
「 神様がこの世界を創ったのだから、この世界は、すばらしい秩序で満ちているに違いない。その秩序を見つけることで、神様の御業を讃えよう。そして、秩序を思索することで、神様の意思に思いをめぐらせよう。」

メンデルの遺伝の法則・万有引力の法則・ケブラーの法則の発見は、神様を信抑し神の御業を見ようという信者によってなされた。

科学の成果で人々の生活が良なっていくと「 神様を信抑せずとも、私たちは幸せになれる 」と人々の価値感は変容する。= パラダイムシフト

「 すべては神様の思し召し 」が「 なぜ? 」という科学的・合理的思考へと変化した。

しかし、合理的思考が幸せをもたらすとは限らない。

「 世の中のあらゆるモノゴトには、すべて原因があって、きちんと観察し、思考し、実験すれば、必ず特定でき、把握できる 」という思考は、逆に「 すべてのモノゴトを把握しなければならない 」というプレッシャーを私たちに与えることとなった。私たちは、あらゆる不安の出所を探す航海へと導かれた。

科学が生んだ社会

科学が生み出した合理的思考法は、民主主義や、貨幣経済の母体となった。

民主主義も貨幣経済も「 人間や利益・富を、一律に定量的に捉えよう 」とする施策である。

民主主義
民主主義は、国民一人一人が、自分の利益を守ってくれそうな代表者を選ぶ制度である。
民主主義は、国民の自我の確立が前提である。

自我とは「 何が自分にとっての損得か 」「 自分が社会に対してどういう態度をとっているのか 」を把握できること。

政治家を選んだ後も「 自分の利益を守る方向で政治をしているか 」をマスコミを通じて客観的・科学的に判断して「 次回の選挙に活かす 」という前提もある。

「 社会の出来事が『 どの代表者の挙動によってもたらされたのか 』という因果関係を把握できる 」という前提がある。

「 社会がうまくいってなかったら、それは『 自分たちの代表者を選ぶときにミスしたか 』『 代表者の監視を怠ったか 』どちらにしても責任は、国民にある 」という国民主権にたったシステムである。

貨幣経済
貨幣経済は、定量化という科学的発想からなる。
「 すべてのモノを、円・ドルというお金の単位に換算しよう 」という考え方である。

モノは、食べ物・服といった見えるモノだけでなく、労働力・サービス・権利といった見えないモノまで、あらゆるモノが含まれる。

「 パンひとかたまりと、工場で1時間働くこと、レストランで2時間働くこと、靴下一足が、みんな同じ値打ちだ 」という発想が科学である。

貨幣経済システムは、身分に関係なく、誰もが「 豊か 」になる権利が与えた。

どんなに手の届かないようなものでも、すべては、ただ単にお金の問題として解決できようになった。

農業革命のときと同じように、産業革命も、科学によって、旧世代の思想:身分制度や宗教信仰が理解できなくなった。
→ 人々の価値感の変容 = パラダイムシフト

近代生活

土地中心・農業中心であった生活が、都市中心・工場中心の生活へと変化した。人々は、田畑を捨て、都市に出てきて、工場で働くようになった。
  1. 今まで、家族で協力して農業を営んでいたのに、父は工場へ仕事へ行き、母は家事と育児を担当するようになった。
    仕事と家庭が分断された。
  2. 工場でやっている分業という概念が、私たちの日常生活へと浸透した。
    今まで、自分たちで作ったものを自分たちで食べていたのが、生産と消費に分断された。

近代教育

工場中心という発想は、教育システムまで、大きく変えてしまった。

【参考】
義務教育の原型は、産業革命時代のイギリスに遡る。1870年にイギリスで8歳から13歳を対象とした教育法が成立された。それまでは「 教育は上流階級の独占物であり、庶民に教育は必要ではない 」と考えられていたが、その変革が求められた背景にあるのが産業革命である。

成長期を過ぎてしまったら、農民の子でも職人の子でも、優秀な工場労働者に仕立てるのは不可能である。若者を予め産業制度用に育てられれば、後の仕込みの手間が大幅に省ける。公共教育こそ、産業社会には不可欠である。
アンドリュー・ウール

工場での労働を想定して、公共教育は基本的な読み書きと算数と歴史を少しずつ教えた。
これは「 表のカリキュラム 」に過ぎない。
産業主導の国では守られている「 裏のカリキュラム 」がある。

・時間を守ること
・命令に従順なこと
・反復作業を嫌がらないこと

この3つが、流れ作業を前提とした工場労働者に求められている資質だ。

私たちみんなが受けてきた義務教育の正体である。

義務教育の目的は、知識の習得ではなく「 日本的集団生活を学ぶ 」ということだ。

日本的というのは、見えない空気という常識に順応することだ。

集団生活とは、工場的な集団作業をこなすための練習だった。流れ作業員養成用特別システムである。

自我の芽生え

中世ヨーロッパでは、自分は神様の思し召しで生まれてきて、神様の思し召しで天に召される存在だった。神様という、他人任せで、主体はなかった。

産業革命以後、一変する。

「 自分がどんな自分であるかは、自分自身で決め、他人任せにしない 」という主体的な思考である。自我が生まれた。
・幸福は、神が与えてくれるものではなく、本人が目指す責任になった。
・不幸は、本人の能力や努力不足が原因であり、これも本人の責任である。

「 神様が決めた通りに生きる 」という枷がなくなり、一人一人が自発的であることが、社会秩序を保つ方法となった。

みんなが豊かさを目指せる社会というのは、当然、豊かでない人を大量生産する。

自分が貧乏な理由、モテない理由、頭が悪い理由は、すべて自己責任である。
この結果、人々は、社会ストレスや精神病にさらされることとなった。

近代のパラダイムシフト

近代のパラダイムは「 モノをもっとたくさん作り出し、もっとたくさん消費することを、カッコいい 」と感じ、「 時間や人手を節約し効率化することを、正しいことだ 」と感じるという方向で形作られている。

これによって、すべてがモノ余りを促し、時間不足を助ける方向性を持っている。

モノゴトを数値的・客観的に捉える科学主義・経済主義・合理主義が、他の考え方を駆逐した時代である。

そんな「モノ余り・時間不足」の高度成長にも、かげりが見えはじめる。

オイルショックによって、資源が有限であることを、人々は認識し始める。

物欲や金に惑わされるのをみっともないと感じる。モノに関心を示さないことをカッコいいと感じる。

近代のパラダイムがシフトをしつつある。

情報革命

「 コト不足、情報余り 」

情報革命において、これまでとは根本的に次元を異にした、全く新しい政治制度と社会構造・新しい産業と資本の論理・労働と生産の概念、そして、新しい価値体系・新しい倫理と信仰が、形を成しはじめた。

農業革命・産業革命によって、人々の生活とその価値観は大きく変化した。
社会の変化や価値観の変化は、人々の悩みも変化させる。

狩猟時代は食糧
封建時代は病気や死
科学時代は貧困
近代はすべてが自己責任
情報余り社会では、情報の用途・目的が、ビジネスから、人間関係が中心となる、コミュニケーションである。

自己責任という自我の確立は、内面へと向かっていく。
現代の自我は「 自分の気持ちを大切にする 」「 自分らしさを大切にする 」という精神性へと帰着した。

創作や研究が内面世界へ向かうため
・金儲けを度外視した活動
・活動が相手にとってメリットがない
・活動の動機が自分の好き・おもしろいという気持ち

工業化社会が終わって、ブルーカラーになりたい人が激減し、ネット社会が発展するにつれて、ホワイトカラーの仕事に就ける人の数が激減してきている。しかし、教育システムは近代のままである。

今、学校へ行っている人の動機は「 みんな行っているから 」しかありえない。

「 みんなと同じことをする 」という近代最後の価値観さえも、崩壊をはじめた。

評価経済社会

私たちは、社会共通の価値観・世界観を、どうやって獲得してきたのか?

① 私たちは、今の自分の価値観を意識していない。
 社会から刷り込まれた価値観を常識として捉えて疑うことがない。
② 私たちの思考は、実は、時代と環境に強くバイアスをかけられている。
③ 私たちが自由意志と言っているものは、いつも、誰かや何かの影響を受けた結果である。
  • 洗脳
    個人にそう考える以外あり得ないように仕向ける。
  • 影響
    人々の価値観をある一定方向へ向かわせようとする。

宗教の布教は、古代では洗脳であったが、現在では、影響である。

メディア

私たちは、メディアの判断基準に従って生活している。メディアに載ることは、暗黙のうちに「 価値を認められた 」ということであり、載らない情報は価値がない、そんな風に自然と感じている。

メディアは、事実のみではなく「 良し悪し 」という価値判断込みの情報である。
価値判断を除いて事実のみを選り分けて知ることは難しい。
私たちは、メディアに洗脳されてしまっている。

ITが取り巻く情報化社会の本質は、世界中の小さな事件の客観情報まで入ってくる社会ではなく、大きな事件の解釈や感想が無限に溢れ出す社会である。

現代社会ほど、自分という情報に対する解釈「 自分が他人にどう思われているのか?」という評価が重要な社会はない。
②「 自分をどう思わせるか 」「 相手をどう決めつけるか 」といった「 影響力 」が武器となる。

メディアは、影響のために発達してきた、影響装置である。

メディアは
「 意味の伝達である 」
と言われるが
「 意図の強制である 」
が本質である

言葉

「 言葉 」という一番シンプルで、原始的なメディアを例にとって考える。

例えば、
子どもが「 崖っぷちに向かって走っていこう 」としているのを見つけた親は「 危ないよ 」と声をかける。
親は「 危ない 」ことを伝えたいのではない。「 行っちゃダメ 」と止めたいのである。
言葉だけ聞くと「 危ない 」という『 意味を伝達 』しているが、実は「 行っちゃダメ 」という『 意図を強制 』しているわけである。

そう言われた子どもは「 どうして? 」と聞く。
なぜ危ないのか聞きたくてしょうがない探求心あふれる子どもだからではない。できればそっちへ行きたいからである。これも、子ども側からの「 行ってもいいことにしろ 」という『 意図の強制 』である。

それを受けて「 落っこちて大ケガするわよ 」と、さらに声を荒げて答える。
言葉は違うが「 行っちゃダメ 」という意図の強制カのバージョンアップである。
言葉の本質は、影響である。
言葉のやりとりは、意図の押し付け合いである。

会話は、コミュニケーションは、すべて意図の強制を目的としている、影響行為である。

ジャーナリズム

ジャーナリズムは報道主義である。「 報道という行為は正しい 」という暗黙の前提を含んでいる。「 報道がなぜ必要か? 」という問いの答えは「 みんなが望んでいることを報道する 」と、はぐらかされる。

ジャーナリズムは一見、事件などの情報を流し「 意味を伝達 」しているかに見える。しかし、実際は「 この事件はみんなにとって大切なことなんだ 」という「 意図の強制 」をしている。

その結果、私たちにとって新聞を読み、ニュースを見るのが常識になった。

ジャーナリズムの必要性を洗脳された。
ジャーナリズムは影響装置である。

マスメディア

言葉より複雑なメディアでは「 意図の強制 」は発見しづらい。映像のメディアは、見ている人間の意識を作り手の解釈通りに均一化する。ストーリーを見ているつもりが、いつの間にか、ライフスタイルや価値観を刷り込まれている。洗脳と気付かせない影響を、最も効果な方法で。

その時代の不安や不満という社会ニーズに合った映像作品は、大きな影響力を持ち、人々を動かすことができる。

メディアは、価値観に影響を与える装置である。私たちは、生まれてすぐ、周りの人間から影響を受ける。しつけ・教育・常識・教養といった言葉で表現される概念の集合体である。しかし、直接の言葉よりも、はるかに効率よく大規模にはたらく装置が科学によって発明された。それが、マスメディアである。

評価経済社会

現代では、双方向発信のSNSが、マスメディアに取って代わろうとしている。

今までマスメディアからの影響を受け入れるだけの存在だった一般人が、初めて、自分から不特定多数の人に向けて自分の意見を述べるシステムを手に入れた。

インターネット上では、誰もが情報発信者・影響を与える側になり得るし、同時に、誰もが受ける側でもある。みんなが、人に影響を与えるために、情報を発信する。

情報を受け取った側は、情報だけでなく、価値観も同時に受け取って、影響を受ける。

その結果、受けた側は与えた側を評価する。
評価と影響をお互いに交換し合う社会、評価経済社会という。

経済は、もともと、モノ・サービス・カネの交換によって生じる関係なので、貨幣経済社会とは、貨幣を仲介にしてモノ・サービス・カネが交換される社会である。評価を、仲介としてモノ・サービス・カネが交換される社会が、評価経済社会である。

中世ヨーロッパの人たちが貨幣経済という新しい価値観に困惑したように、評価経済という新しい価値観に困惑しているに過ぎない、新しいパラダイムは、旧世代には受け入れられないモノだ。

近代の経済成長は、貨幣経済競争の原理の上に成り立っている。
個人が自分の貨幣的利益を追求することが、社会を活性化し、経済成長を促す。

評価経済では、自分の評価を貨幣に見立てて、評価的利益を追求する。

歴史上、影響行為は、常に権力者に独占されていた

・マスメディアは、科学技術の進歩の産物であり、新聞社・ラジオ・テレビと進化していった。
・マスメディアは、科学を崇拝し、科学の影響を拡散していった。

マスメディアは、自分たちの利益を代表する政治家を監視するツールであったはずだが、逆に、政治家はマスメディアを利用して、国民を洗脳した。

・国民は、マスメディアを通じて、科学主義・自由経済主義・民主主義といった概念を自然に受け入れた。
・国民は、マスメディアによって、経済成長を実感した。
・国民は、「 科学の発達によって経済的恩恵を得た 」と信じてやまなかった。
・国民は、テレビを買い、テレビに洗脳されていった。

テレビ = マスメディアの雄からの解放をもたらしたのが、情報革命である。

情報革命による価値観変化は、物質文明、貨幣経済・産業主義に引導を渡す。
① 農業革命が、狩猟民族のリーダーの特権だった食糧を解放した。
② 産業革命が、貴族の特権であった娯楽を人々に解放した。
③ 情報革命が、権力者の特権であった影響を人々に解放した。
技術は、特権を人々に解放する。
・人々のニーズを掴み、最も効率よく生産・販売して、多くの富という貨幣を得られるのが、貨幣経済社会である。
・人々の不安や不満を掴み、多くの人々に影響を与え、尊敬と賞賛という評価を得られるのが、評価経済社会である。

得られる利益は、貨幣的利潤ではなく、評価的利潤 = イメージである。

・近代
 誰もが豊かになるために競争する社会
・新しい時代
 誰もが他人に影響を与えることを競争する社会

現在、様々な商品が、様々な年齢や生活水準の人のために存在するように、様々な価値観・世界観が、様々な人々の要望に応えて存在する世界が、評価経済社会である。

評価経済社会では、貨幣経済力よりも、プラスイメージが大きな力を持つ。プラスイメージは、貨幣経済社会の資本力に対して、評価経済社会における、評価資本に基づく影響力となる。

影響力はイメージに過ぎないが、お金自体もただの紙切れであって、イメージに過ぎない。

イメージ形成にはお金がかかるが、一度、イメージが確立してしまえば、それは、ブランドとなり、初期コストを回収して余りある収益を出すことが可能だ。一方で、お金で評価を生み出すことは、難しい。既に発生している評価 = イメージ = ブランドをお金で買い求めることはできる。しかし、お金で評価を買うには、一般的に割高になってしまう。お金で評価を生み出そうとすると、とんでもない金銭的コストが必要になる。

お金と評価の交換レートは、評価 > 貨幣であり、旧時代の貨幣という価値は、次代の評価という価値に従属する。

巨大な資本で人やモノを買収する代わりに、強力な影響力で人やモノを動かす。
お金よりも、評価 = イメージ、影響力によってモノゴトが動きやすい時代である。

これからの企業にとって、生き残るために、最も大切なことは、影響力である。この影響力を、貨幣経済の資本に対して、評価資本という。

これからの消費行動は、どんどんサポーター的要素が強くなっていく。モノを買う、お金を払うという行為が、自分の欲しいモノを手に入れるためや、自分の望むサービスを受けるためではなく、自分が賛同する企業・グループ・個人を応援するためにされるようになる。

人の気持ちの中で、より自覚的・意図的に、〇〇を応援するため、〇〇を育てるためと考えて、お金の使い方を決めるようになる。

① これからの企業は「 なぜこれをしなければならないのか 」という価値観・世界観を明確にする必要がある。
② 同時に、その価値観・世界観に賛同する人には「 こういう風に力を貸してくれ 」と具体的に提示する必要がある。
③ そして、力を貸してもらえたら、今度は「 貸してくれた力によって何ができたのか 」をきちんと報告しなければならない。
  • 価値観の提示
  • 具体的要求
  • 成果の報告

この3つが揃って初めて評価資本は増大する。
「 消費者がサポーターになる 」とは、このようなことである。

幸福の新しいかたち

評価経済社会での個人のふるまいの特徴
① 他人をその価値観で判断する。
② 価値観を共有する者同士がグループを形成する。
③ 個人の中で複数の価値観を共存させる。

現在進行中の社会変化では、家族・仕事・住所・立場といったルールが失われ、人間関係の自由が推進される。

・貨幣経済社会では、他人を持ちモノで測っていた。
・評価経済社会では、他人をどの価値観や世界観を選んでいるかで測る。
評価経済社会において、価値観とは、自分独自のものを持ったりするのではなく、消費者として選ぶものである。
・貨幣経済社会において、大多数の人は消費者である。
・評価経済社会において、大多数の人は被影響者 = イメージ消費者である。
・貨幣経済社会においては「 何を買うか 」が最大の関心事である。
・評価経済社会においては、豊富にある価値観や世界観、イメージから「 何を選ぶか 」というのが最大関心事になる。

人々は、お互いに「 どんなイメージを選んだか 」で相手を値踏みする。そして、同じ価値観を持つ者同士がグループを作り出す。

「 自分とは、ひとつの価値観に統一された判断主体でなければならない 」という思想 = 近代的自我は、情報革命によって崩壊してしまった。

状況や場面によって、複数の価値観を同時に持つようになった。複数の価値観をそれぞれ突き詰めていくと、矛盾が生じるが、その矛盾すらも内包してしまう自己を確立する時代となった。

自我とは、ハッキリと自分の価値観を持っていることだ。

  • 民主主義は「 自分の利益が何か、自分自身が1番知っていて、自分の利益の代表を一人選んで、投票することができる 」ことが前提である。
  • 資本主義や自由市場は、「 みんなが自分の利益が何かちゃんと分かっていて、それに向かって邁進する 」ことが前提である。

近代の社会は、一人一人の自我の確立を前提にしている。

自分のやるべきことは、全部自分で判断しなくてはならない。それが、自分の利益につながる。だから、現状に満足していないならば、それは、自分の責任である。自分が、近代的自我を確立していないから、自分のやるべきことが判断できない。だから、もっと考えなければならない。もっともっといろんなことを勉強して、本を読んで、考えなければならない。

私たちは知らず知らずのうちに、こんなことを教え込まれている。

近代的自我は、近代の前期、情報や知識の量が一定程度しか流通していなかった時代でしか成立しない人間像だった。情報革命によって、情報が洪水のように氾濫している社会では、そもそも、前提に無理があったのだ。

情報は、一度自分の中をくぐらせ、知識、そして知恵まで高め、体系化する必要がある。
しかし、その処理にはある程度時間がかかる。

・情報が氾濫している社会では、整理屋が求められる。
・「 情報 + 解釈 」をパッケージで提供できる人が求められ、評価されることになる。

これほど情報や価値観が溢れている現在では、自我の確立の実現は困難である。唯一の自我を目指すのではなく、いくつもの価値観を共存させ、状況に応じたキャラクターを使い分けていくことが、評価経済時代の戦略である。

自分自身を、複数の価値観を併せ持つ総体として捉える。

旧世代の行動力の源はハングリー精神である。
「 もっと金持ちになりたい 」という欲が大切であった。

評価経済での行動力の源泉も自分の気持ちである。
自分の「 好き嫌い」「 合う合わない 」「 おもしろい 」「 やってみたい 」という気持ちである。

自分の気持ちに正直であることは、他人の気持ちも尊重しなければならない、他人の価値観を受け入れなければならない。

考える

私たちは、今、どんな風に「 考えている 」だろうか?

ゼロベースで考え出すことはない。ネットで情報を得て「 考えている 」。このやり方を集合知という。集合知は、問題を生む。「 自分とは何か?」「 自分の考えとは何か?」という自我そのものが、ドンドンとネットの中に溶けていってしまう問題である。

『自分の存在根拠 = アイデンティティー』は自分の内面にある。

① モノゴトに中心はなく、すべては関係性の中のベクトル ( 力と方向 ) である。
② 物質は突き詰めていくと、実力、それも突き詰めていくと方向と引っ張る力になる。
③ モノは存在せず、関係しか存在しない。

モノゴト、物質世界に中心がない、本質的存在がないとすると、自己も同様である。「 自己の存在根拠 = アイデンティティーは自分の内面にある 」というのは、壮大な勘違いかもしれない。

「 考える 」という行為自体、必ず「 学んだ言葉 」を使うことが前提だ。
「 学んだ言葉 = 誰かが使った言葉 」である。
言葉を模倣し、使いこなすことを、私たちは「 考える 」と呼んでいるに過ぎない。
私たちは、機械 ( 肉体 ) の中に住む幽霊 ( 心 ) である。
ギルバート・ライル

ネットが前提の現代では、現実世界 ( 肉体 ) と、脳 ( 心 )だけでなく、ネット環境 ( 自我が溶けた世界 ) の中に、私たちは存在している。

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