存在の拡張
2022/3/10
財布
私は「 一人だ 」と思っていた。
私は物理的に一人だから「 一人だ 」と思っていた。
親友の太一と石橋と3人で遊ぶと異常に楽しい。太一と2人で遊んでも、石橋と2人で遊んでも、もちろん楽しい、それでも、やっぱり2〜3倍だ。3人で遊ぶと10倍と、丸1つ違う、それこそ桁違いだ。
なんで3人で遊ぶとこんなに楽しいのだろうか?って考えた。
キッカケは、3人で遊ぶときのお金って、ワリカンにしてるけど「 どうでもいいな 」と思った。「 別々の財布から出してるけど、それって、実は、誰が出してもよくて、1つの財布だよな 」って思った。物理的には3つの財布があるけど、考え方としては1つの財布である。誰が払ってもいいし、1つの財布なのだから。
この楽しさは、1人でも2人でも不可能なのだ。3人でしか、この楽しさは生み出せない。絶対に3人でなければならない。お金は大切だけど、3人で過ごす時間に値段は付けられない。3人で楽しく過ごすためには、お金がかかる。それで、もはや、誰が払うかなんて、3人で集まって遊ぶことに比べたら、本当にどうでもいいことだ。3人で遊ぶこと以上に価値があることはないから、お金どころの話しではない。物理的に3つの財布があるけど、1つとして捉えることができる。
存在
私たちは、どうしても、目で見たモノを信じてしまう。「 存在するということだけが絶対だ 」と思ってしまう。でも、実は、私たちは、目に見えない存在も信じている。
- 「 空気がある 」と信じている。
目に見えない透明な存在を信じている。 - 「 電気がある 」と信じている。
目に見えないけど、コンセントを通して電気が使えると信じている。 - 友達にあったときに「 元気?」と聞く。
元気は目に見えない、状態はわからない。
当たり前のこと過ぎて忘れてしまっているけど、私たちは、目に見えるモノだけじゃなくて、目に見えない存在も信じている。
- 目に見えなくても、ないとは言えない。
- 目に見えなくても、あるモノもある。
目に見えることだけが事実ではない。
3つの財布は、3人の財布は、同じ時間を共有しているときは、1つなのだ。
ただ、それだけだ。3つに見えるけど、1つなのだ。
財布という物質は1つである。
拡張する。
私たちは、3人だけど、実は1人なのかもしれない。
3人に見えるけど、実は、1人という概念である。財布3つが1つ、3人も1人である。私だけでは楽しさに辿り着けない。2人でも3人の楽しさに辿り着けない。どうしても、3人が必要なのだ、3人いて初めて、最大限の楽しさを享受できる。楽しさは、3人の存在を前提としている。3人揃って初めて、楽しさの向こう側へ行ける。それは、3人でしかなしえないことである。
発想を逆転する。3人が必要なのではなく、もともとは、1人だったのだ。だから、楽しいのだ。今は、分裂して3人に見えるし、3人存在しているけど、実は、1人である。目に見える存在という概念の先、私たちは3人で1人、元々は1人。だから、楽しい。自分が自分であるのだから。3人揃って初めて自分が自分足りえるのだ。ただ、それだけだ。
「 なんか変だな 」って思っていた。それを考えていたら、目に見える存在という概念の先にある、思考、考え方があった。気が付くまで、気付かなかっただけだ。
かつや
かつやで、割引券を探していたら、店員さんが、割引してくれた。そこに割引券はない。物理的にはないし、見えない。だけど「 そこに割引券があるか 」のような対応をしてくれた。私は、割引券を探していただけで、すぐに見つからなかっただけだ。見えなくても、物質的になくても、店員さんは「 そこに割引券が存在する 」と判断した。そして、割引してくれた。「 割引券があるかどうか 」なんて、「 目に見えるかどうか 」なんて、関係なくて「 そこにお互いが存在を認識した 」だけだ。かつやの割引券は「 すぐ出せるようにしておこう 」という教訓である。
視覚
・目に見えることなんて、関係ない。
・目に見えることだけが、存在理由ではない。
・目に見えなくても、存在する、空気は、存在する。
・目に見えないけど、「 人間が存在する 」と信じたら、「 そこに目に見えない何か 」は存在する。「 空気は、人間が存在する 」と信じているから、存在する。
犬や猫にとって、空気は存在しない。目に見えないモノを信じられるのは、人間だけだ。だから、例え、犬と会話できたとしても、犬に、空気の概念は説明できない。人間が勝手に、目に見えない何かを空気と呼んで「 そこにある 」と信じているに過ぎない。犬は、目に見えない存在を信じることはできない。
犬は、人間じゃないから、空気が、わからない。
私たち日本人は、無宗教なので「 神様はいない 」と思っている、神様は見えない。でも、世界中の半分、2人に1人は、神様を信じている。神様は見えないけど、神様を信じている。
私たちは、目が便利だし、目で見たモノは、みんなが共通でわかるから、目で見たモノに捉われている。
しかし、私たちの生活は、空気や電気など、目に見えないモノに囲まれている。
- 時間を人間がわかりやすく数字にしているだけで、本当は、見えない、概念である。
- お金も人間にわかりやすく紙幣にしているだけで、本当は、概念である。
1万円札は22円の価値しかない。「 それを1万円の価値がある 」と信じているだけだ。
それが、動物と私たち人間の境界線である。
見えない何かに名前を付けて、人間、みんなで信じている。
見えない何かを、見えるようにして、人間、みんなで信じている。
あると言えばある。
見えるかどうかではない、信じるかどうかである。みんなで、信じたら、そこにはある。空気は見えないし、触れないけど、人間が、空気と名前を付けて「 空気がある 」と信じたから、空気はある。犬に空気はない。
見えるものだけに捉えられていては、本質を見失う。ほとんど、見えない。
空気も、電気も、元気も、愛も、心も、私たちが生きる上で本当に必要なモノは、目に見えない。
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