事実と真実の違い
2022/5/13
魔法使いになりたい
ベランダに出たら、肌寒かった。
私が「 寒い 」と感じたのは、私の肉体的な事実である。
しかし、万人が「 肌寒い 」と感じるわけではない。
「 涼しい 」と感じる人もいるはずだ。
他人の肉体では異なる事実となる。
私の感覚と他人の感覚は異なるのは当然だ、私の肉体と他人の肉体は別々の個体だ。
私たちは、それぞれに個別の肉体を持つから、肉体からの感覚も異なる。同じ場所にいても、エアコンが寒い人もいれば、暑い人もいる。
「 寒い 」という事実の人と「 暑い 」という事実の人が同じ空間に共存する。事実は2つになる。事実は2つになった時点で、それはもう、事実ではない。
- ファミレスで注文したパンが、焼きすぎて焦げていているように見えた。
- 隣の席の人が同じメニューを注文していた。
- そのパンもやっぱり、私のパンと同じように、焼きすぎて焦げいてるように見えた。
- 私には焦げて見えているだけ、調理している人には、一番いい焼き加減に見えているに違いない。
パンという物質があって、パンを焼くという現象がある。その現象は一つだが、現象を認識するのは自分だから、判断は人によって異なる。私にとっては「 パンが焦げている 」という事実だが、調理人にとっては「 パンは焦げていない 」という事実である。事実は2つになる。事実は2つになった時点で、それはもう、事実ではない。
事実は1つである。
事実を統合するためには、数字というツールを使う。
数字だけは普遍の概念だ。
数字を用いることで、全員が、共通の認識に近づける。でも、近づけるだけだ。
ラーメンで、150g・300g・600g・1000g という麺の量がある。すべて数字である。しかし、数字であっても「 多い 」と感じる量は人それぞれである。数字は事実であるが、その数字をどう判断するかは、やはり個人に委ねれらる。
・手術した人のうち10人に1人は重い後遺症に苦しみます。
同じ数字でも、表現によって個人の解釈は変わる。
個人でも、時期によって感覚が異なる。夏の27℃は涼しい、冬の27℃は暖かい。
数字は普遍の事実だ。
だからといって、誰もが共通の認識に至ることはない。
数字の表現方法によっても異なるし、同じ数字でも環境によって異なる。
・状況次第で、事実は、真実じゃなくなる。
普遍の数字でも、表現次第なのだ。

真理を見つけたい
私とは、真理を知りえた特別な人間ではない、大衆の中の1人である。
例えば、天動説が支配する社会で生きていたならば、私は天動説を信じたはすだ。たまたま、現代に生きているから、地動説を信じているだけだ。
私が、もし、天動説の時代に生まれていたとして、地動説という真理を発見したとして、自分の生命をかけられるか?
処刑・社会的抹殺の憂き目にあったとしても。
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