【本要約】失敗の科学
2022/4/27
失敗のメカニズム
- 人間が失敗から学んで進化を遂げるメカニズム
- 創造力を発揮して革命を起こすメカニズム
ビジネスや政治の世界でも、日常生活でも基本的な仕組みは同じだ。私たちが進化を遂げて成功するカギは、失敗とどう向き合うかにある。
何かミスを犯して、自尊心や職業意識か脅かされると、私たちは頑なになってしまう。
社会全体で考えても、失敗に対する姿勢は矛盾している。
- 私たちは自分の失敗に言い訳するくせに、他人が間違いを犯すとすぐ責め立てる。
- 誰もが失敗を隠すようになる。
- 学習に欠かせない貴重な情報源を、活用することもないままに葬り去ってしまう。
人は失敗を恐れるあまり、度々曖昧なゴールを設定する。例え達成できなくても、誰にも非難されないからだ。失敗する前から、面目を失わずに済むよう逃場や言い訳を用意してある。
- クローズドルーブ現象
失敗や欠陥に関わる情報が放置されたり、曲解されたりして、進歩につながらない現象や状態
政府・企業・病院・裁判所、私たちの日常生活など、現代社会の中の至るところで見られる - オープンループ現象
失敗は適切に対処され、学習の機会や進化がもたらされる
医療事故がなくならないのは、医師や病院の人間的性質ではなく、医療業界の隠蔽体質でもなく、失敗に対する処方箋がないからだ。
航空業界では、なぜ、飛行機事故が多発しないのか?
医療業界と航空業界では、失敗へのアプローチが異なる。
航空業界では、事故のときに、事故調査のために強い権限を持つ独立の調査機関が存在する。それによって、失敗は、貴重な学習チャンスとなり、失敗から学んで、システムを改善する方法が確立され、高い成果を上げている。航空業界全体の組織文化が、医療業界との根本的な方向性の違いである。
- 医療業界での失敗は、最善を尽くしました。手術室の中は、ブラックボックスだ。
- 航空業界は、失敗と誠実に向き合い、学習する、失敗はデータの山であると捉える。
エレノア・ルーズベルト
失敗したケースでは、人は、時間の感覚を失っていた。集中力は、ある意味恐ろしい能力だ。ひとつのことに集中すると、他のことには一切気付けなくなる。
ヒューマンエラーの多くは「 設計が不十分なシステムによって引き起こされる 」という事実がある。
失敗は予想を超えて起こる。世界は複雑で、すべてを理解すことは不可能に等しいからだ。失敗は、「 道しるべ 」となり、私たちの意識や行動や戦略を「 どう更新していけばいいのか 」を指し示す。
何か失敗したときに「この失敗を調査するために時間を費やす価値はあるだろうか?」と疑問を持つのは間違いだ。時間を費やさなかったせいで失うものは大きい。失敗を、見過ごせば、学習も更新もできない。
・既に自分で正しい答えがわかっている失敗
・答えがわからない失敗
製薬会社の化学薬品の組み合わせの効能については、試してみないとわからない。だから、広範囲にテストを行い、何度も意図的に失敗する。失敗は、進歩に不可欠なのだ。
答えがわからないものは、試してみないとわからない。
生き残った者のデータだけでは、真理は得られない。
生き残った者の裏にあるデータを想像して、全体から把握しなければならない。
失敗から学ぶためには、目の前の見えていないデータを含めたすべてのデータを考慮に入れなければならない。
「 ハドソン川の奇跡 」サレンバーガー機長
科学という仮説
科学も、失敗から学ぶことが重視される分野のひとつだ。科学は自らの失敗に慎重に応えることにより発展を遂げる。科学という仮説は、実験や観察によって反証される可能性がある。
科学の歴史は、人類のあらゆる思想の歴史と同様、失敗の歴史である。
科学は、失敗が徹底的に論じられ、さらにそのほとんどは修正されてしかるべきときに修正される、数少ない、おそらくはたったひとつの人間活動だ。だからこそ「 科学は失敗から学ぶ学問だ 」と言えるのであり、その賢明な行動によって進歩がもたらされるのである。
何にでも当てはまるのは科学ではない。
あらゆる人間の行動は「 自分を向上したい 」という優越性の追求から生まれる。
解釈によって、人間の行動のすべてに当てはまる理論である。だからこそ、あらゆるものが、裏付けの材料になるからこそ、強い理論のようだ。しかし、反証可能性のない理論は、致命的な弱点を内包することになる。
故意にしろ偶然にしろ、失敗することが不可能な仕組みに一見考えられる。だからこそ、理論は完璧に見えてしまう。しかし、「 あらゆるものが、あてはまる 」というのは、何からも学べない。
科学の世界では立証することが重要だ。モノこそを観察して、理論を構築し、裏付けとなる証拠をできる限り集めて立証する。一方で、科学には反証も欠かせない。反証となるデータを検証しない限りは、知識は進歩しない。
科学は通説に異議を唱え、様々な仮説を検証して、進歩を遂げてきた。
私たちは「 失敗した 」科学理論を学ばない。たしかに、淘汰された説など学んでいる暇はないのかもしれない。しかし、生き残った説だけを見ていたら、それをもたらす土台となった失敗には気がつかない。この盲点は科学に限らず、今日の世界の基本的な特徴だ。私たちが目にする成功は全体のごく一部にすぎない。画期的な理論も、驚くほど安全な航空機も、本物のプロが見せる妙技も、みな氷山の一角だ。
脳の改ざん
人は自分の信念と相反する事実を突き付けられると、自分の過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまう。自分を正当化してしまう。
- 過去は事後的に編集される。
- 天才ほどハマる自己正当化の罠である。
- 「 隠すことなんてない 」と信じる人ほど、上手にミスを隠す。
「 認知的不協和が何より恐ろしい 」のは、自分が認知的不協和に陥っていることに滅多に気付けない点にある。
意図的に人を欺く行為には、少なくともひとつだけマシな点がある。欺いている側が、自覚していることだ。一方で、無意識の欺瞞は、自分自身を欺き、かつ、自覚されることが少ない。
実は、ミスの隠蔽を1番うまくやり遂げるのは「 意図的に隠そう 」とする人たちではなく「自分には隠すことなんて何もない」と無意識に信じている人たちの方だ。
認知的不協和には、確証バイアスという心理的傾向も関連している。
進んで失敗する意思がない限り、ルールを見つけ出す可能性は、まずない。必要なのは自分の仮説に反することで検証することだ。間違った仮説から抜け出す唯一の方法は、失敗することだ。
批判的なモノの見方を忘れると、自分が見つけたいモノしか見つからない。自分が欲しいモノだけを探し、それを見つけて、確証だと捉え、持論を脅かすモノからは目を背ける。
記憶は私たちが思っているほど信頼できるものではない。私たちは、自分の経験をすべて高画質の動画で頭の中に保存して、好きなときに観られるわけではない。記憶は脳全体に分散するシステムで、あらゆる種類のバイアスの下にある。 つまり、それだけ様々な影響を受けやすい。まったく別々の経験の一部を集めて、ひとつの出来事につなげてしまうことすらある。いわば記憶の「 編集 」をしているのだ。
本来、記憶には柔軟性があって、未来の出来事を想像したり期待したりするときに重要な役割を果たす。しかし柔軟性があるからこそ、ときに記憶違いが起こってしまう。実は、私たちは自分が「 実際に見たこと 」より「 知っていること 」に記憶を一致させる傾向がある。
考えるな、間違えろ
進歩や革新は、頭の中だけで美しく組み立てられた計画から生まれるものではない。生物の進化もそうだ。進化にそもそも計画などない。生物たちが周りの世界に適応しながら、世代を重ねて変異していく。
- 進化とは選択の繰り返しである。
- 試行錯誤こそが、生物学における進化のプロセスだ。
進化は自然淘汰によって、つまり、選択の繰り返しによって起こる。適応力の強い個体が生き残って子孫を残すと、その中から突然変異によって、更に強みを得た個体が生まれ、その後、次々と世代を重ねて進化していく。
- 適応の積み重ねは、累積淘汰というメカニズムである。
- 累積淘汰は何らかの「 記憶システム 」があれば機能する。
世代ごとに行った選択を記憶し、それを次世代へ、また次の世代へと引き継いでいく。自然界ではこのプロセスがあまりにうまく機能しているせいか、一部の人々は「 インテリジェント・デザイン 」という錯覚まで抱くようになった。実際には、自然のプロセスにすぎないのに「 動物の造形などの進化は、知性ある何者かによってデザインされた 」と考える人々が存在する。
自由市場における自然淘汰は倒産である。競合他社に比べて何かがうまく機能していないときに倒産する。弱いアイデアや製品は淘汰され、強いモノが生き残り、競合他社によって複製される。進化的プロセスを踏襲するシステムを踏まえた自由市場システムは、企業の累積淘汰によって活性化している。
経済発展における創造的破壊である。
頭を使って考えた仮説を検証しつつ、実践で失敗や選択を繰り返して学びながら、戦略の方向性を見極める。いわば数学者的トップダウン方式と生物学者的ボトムダウン方式の混合だ。「 信念を貫く勇気 」と、 進んで自分を試して成長し続けようとする謙虚さ 」とを兼ね備えなければならない。
世界を変えた画期的な機械は、地道な試行錯誤の末に発明された。科学者ではなく実践的な知識を備えた職人たちが、生産性の壁を打破するために、失敗と学習を繰り返しながら開発に取り組んだのだ。
発明の論理的な根拠は、彼ら自身も十分に理解していなかっただろう。ましてやそれを科学的に説明することなど、不可能だったに違いない。しかしそんなことは必要ではなかった。
テクノロジーの進歩の裏には、論理的知識と実践的知識の両方の存在があって、それぞれが複雑に交差し合いながら、前進を支えている。
世界の単純化
実は「 正しいかどうか試してみる 」を実行に移すには大きな障壁がある。実は私たちは知らないうちに、世の中を過度に単純化していることが多い。ついつい「 どうせ答えはもうわかっているんだから、わざわざ試す必要もないだろう 」と考えてしまうのだ。これは案外根深い問題かもしれない。
現実の複雑さを過小評価する人間の心理的傾向の一つに講釈の誤りがある。物事が起こってから、後付けで、因果関係やストーリーを組み立てる。
私たちは、自分の周りで起こる出来事に意味を見出そうとするため、そこから、必然的に講釈の誤りが生まれる。人が「 もっともらしい 」と感じる説はシンプルだ。抽象的ではなく具体的で、誰かの才能・愚かさ・意図などが大きな役割を担う。起こらなかった無数の物事より、ほんの2、3の目を引く現象に目を奪われてしまう。とにかく間近に起こった特徴的な出来事なら何でも、後講釈の題材になり得るのだ。
もし私たちが勝手な理屈で「 世の中は単純だ 」と思い込んでいれば、試行錯誤の必要は感じない。その結果、ボトムアップ式を怠りトップダウン式で物事を判断してしまう。自分の直感や既に持っている知識だけを信じ、問題を直視せず、都合のいい後講釈で自己満足に陥り、その事実に気づかない。本当なら自分のアイデアや仮説をテストし、欠点を見つめ、学んでいかなければならないのに、その機会を失ってしまう。
完璧主義
完璧主義の罠に陥る要因はふたつの誤解にある。
1つ目は、「 ベッドルームでひたすら考え抜けば最適解を得られる 」という誤解。
この誤解にとらわれると、決して自分の仮説を実社会でテストしようとしなくなる。ボトムアップよりトップダウンの方式に重点を置くと生まれやすい問題だ。
2つ目は、失敗への恐怖。
人は自分の失敗を見つけると、隠したり、はじめからなかったことにしたりする。しかし、完璧主義者はいろんな意味でさらに極端だ。「 失敗をなくそう 」と頭の中で考え続け、気づけば「 今、欠陥を見つけても、もう手遅れ 」という状態になっている。これが「 クローズド・ループ現象 」である。失敗への恐怖から閉ざされた空間の中で行動を繰り返し、決して外に出て行こうとしない。
量のグループは、実際に作品を次から次へと作って試行錯誤を重ね、粘土の扱いもうまくなっていった。しかし質のグループは、最初から完璧な作品を作ろうとするあまり頭で考えることに時間をかけすぎてしまった。結局あとに残ったのは、壮大な理論と粘土の塊だった。
完璧主義の罠に陥りやすい人に、次のようなポリシーを持つ。
- すばらしいミュージシャンになるために、まず、ひどい曲をたくさん演奏しよう!
- 強いテニスプレーヤーになるために、まず、たくさん試合に負けよう!
- エネルギー効率のいい設計やミニマリズム建築 ( 極限的にシンプルな美を追求した建築 ) で第一人者と言われる建築家になるために、まず非効率で野暮ったい建物をデザインしよう!
早い段階で試行錯誤するプロセスは、IT革命とともに現れた「 リーン・スタートアップ 」というアプローチに通じる。その根本は非常にシンプルで、いわば検証と軌道修正の繰り返しだ。 IT起業家は夢の中でさえ複雑な数式を駆使できる、すばらしい理論家であることが多い。しかしリーン・スタートアップでは、そんな能力だけに頼ることなく、進んで失敗をして学ぶ。
・成果そのものよりも、トップダウン方式を重視した従来の価値観に風穴を開けた。
・物事を素直に受け入れる気持ちと、根気強さが欠かせない。
難問はまず切り刻め
犯人探しバイアスとの闘い
- 何かミスが起こったときに「 担当者の不注意だ! 」「 怠慢だ!」と真っ先に非難が始まる環境では、誰でも失敗を隠したくなる。
- もし「 失敗は学習のチャンス 」と捉える組織文化が根付いていれば、非難よりもまず、「 何が起こったのかを詳しく調査しよう 」という意志が働く。
適切な調査を行えば、ふたつのチャンスがもたらされる。
- 貴重な学習のチャンス。
失敗から学んで潜在的な問題を解決できれば、組織の進化につながる。 - オープンな組織文化を構築するチャンス。
ミスを犯しても不当に非難されなければ、当事者は自分の偶発的なミスや、それにかかわる重要な情報を進んで報告するようになる。するとさらに進化の勢いは増していく。
「 世界の複雑さ 」を受け入れる
複雑な世界から物事を学ぶには、その複雑さと向き合わなければならない。何でも単純に考えてすぐに誰かを非難するのはやめる。肝心なのは、問題を深く探って、本当に何が起こったのかを突き止めることだ。その姿勢があれば、隠蔽や自己正当化のない、オープンで誠実な組織文化を構築することができる。
企業でも病院でも政府機関でも、どこでも常にミスは起こる。
- それなのに、悪意のない偶発的なミスを責め立てられたら、誰が進んで自分の失敗を報告するだろう?
- そんな状態で、どうやってシステムが改善されるというのだろう?
企業は何かと言えばすぐ非難に走る。誰かに責任を被せたほうが、企業にとっては都合がいい。大失敗は一部の「 腐ったリンゴ 」のせいだということにすれば、企業のイメージを損なわずに済む。「 悪いのは会社じゃない。ほんの一部の社員のせいなんです!」というわけだ。
- 「 非難や懲罰には規律を正す効果がある 」という考え方が管理者に浸透していることも問題を根深くしている。
- 「 失敗は悪 」として厳しく罰すれば「 社員が奮い立って勤勉になる 」と信じている。
シドニー・デッカー
非難すると、相手はかえって責任を果たさなくなる可能性がある。ミスの報告を避け、状況の改善のために進んで意見を出すこともしなくなる。
問題が単純なら、非難にも効果があるかもしれない。注意を怠ったために起こるミスなら、罰則を強化すればミスを減らすこともできるだろう。
ビジネス・政治・航空・医療の分野のミスは、単に注意を怠ったせいではなく、複雑な要因から生まれることが多い。その場合、罰則を強化したところでミスそのものは減らない。ミスの報告を減らしてしまうだけだ。
不当に非難すればするほど、あるいは重い罰則を科せば科すほど、ミスは深く埋もれていく。すると失敗から学ぶ機会がなくなって、同じミスが繰り返し起こる。その結果、さらに非難が強まり、隠蔽体質は強化される。
適切な形での責任の追及は、ミスの報告を妨げはしない。つまり、管理者が非難に走らず、時間をかけて「 本当に何が起こったのか 」を丁寧に調べる姿勢を見せていれば、部下は責任追及を恐れずに済む。プロとして堂々と事情を説明し、意見を言うことができる。
処遇を判断する立場の人間を、部下は信頼しているか?
裁く側の人間を信頼することができて初めて、人はオープンになり、その結果、勤勉にもなる。
私たちの脳は、一番単純で一番直感的な結論を出す傾向がある。
人の行動の原因を性格的な要因に求め、状況的な要因を軽視する傾向だ。この傾向は、自分のミスになると出てこない。
公正な文化では、失敗から学ぶことが奨励される。
哲学者カール・ポパー
失敗は必然
成功を収めた人々の、失敗に対する前向きな考え方にはよく驚かされる。もちろん、誰でも成功に向けて努力するが「 そのプロセスに失敗が欠かせない 」と強く認識しているのは、成功者である。
失敗から学ばない傾向を克服する方法を検討する。
- なぜ、人や組織は、失敗と真っ直ぐ向き合うことができるのか?
- 逃げたり言い訳したりせず、非難の衝動も抑えて、失敗から学ぶためにはどうすればいいのか?
成長型マインドセットの企業では、誠実で協力的な組織文化が浸透しており、ミスに対する反応も健全だった。
- リスクを冒すことを純粋に奨励していて、失敗しても非難されない。
- 失敗は学習の機会であり、それがいずれ付加価値となると捉えている。
- 革新的に考えることが奨励され、創造力が歓迎される。
成長型マインドセットの人は、間違いにしっかりと注意を向けていた。
→ 失敗への着目度と学習効果との密接な相関関係がある。
失敗から学べる人と学べない人の違いは、失敗の受け止め方の違いだ。
- 立派な資質があろうとも、やり抜く力がなければ、困難にぶつかって脱落してしまう。
- 「 困難も成功への通り道だ 」とは考えず、失敗から逃げてばかりになる。
- やり抜く力は、成長型マインドセットと密接に関連している。
成長型マインドセットの人ほど、あきらめる判断を合理的に下す。
- 自分には「 この問題の解決に必要なスキルが足りない 」とあきらめる。
- 自分の欠陥を晒すことを恐れたり恥じたりすることなく、自由にあきらめることができる。
- 引き際を見極めて、他のことに挑戦するのも、やり抜くのも、どちらも成長なのだ。
ヘンリーフォード
ベーコン
- 何世紀もの間、人類を縛り付けてきた「 知識は神の啓示によるもの 」という独断的な思想に異議を唱えた。
- 「 科学とは真実を擁護することではなく、真実に挑むことだ 」と主張した。
- 「 勇気を持って検証し学ぶことが肝心だ 」と訴えた。
- 「 科学のしかるべき真の目標は、人類の生活が新たな発見や知識に満たされることである 」と論じた。
ベーコン
ペーコンの功績
- 理論は批判的に検証されるようになり、その刺激によって新たな創造が生まれた。
- 権威的存在の思想を徹底的に検証することは、冒涜ではなくむしろ使命と見なされるようになった。
- 誤りは、再び、災厄から好機へと変わった。
宗教的な世界観は固定されていた。何百年も科学の進歩が滞っていたのはそのためだ。
科学者は自らの理論を進んで検証し、自分が万能だとは考えない。
自然に問いかけ、うまく理論が成り立たなければ、その考えを進んで改めていく。
哲学者ヒラリー・パトナム
皮肉なことに、人間社会は自然界よりさらに複雑だ。惑星の軌道を予測する一般理論はあるが、人の行動を予測する一般理論はひとつもない。
状況が複雑になればなるほど、トップダウンではなく、ボトムアップで真実を見出す努力が必要だ。
ジョン・スチュアート・ミル
- 「 一般社会においても試行錯誤が必要だ 」と主張した。
- 「 個人が自由に多種多様な生活の実験を行うことが、社会の利益につながる 」と説いた。
- 反対に「 社会的同調はこうした実験を制限するもの、つまり権威への服従と同じことであり、破滅につながる 」と論じた。
- 「 異議や批判は、社会秩序を脅かすものではなく、その中核となって創造力を刺激し、新たなアイデアを生む 」と考えた。
失敗は汚らしいモノのように扱われてきた。「 間違えたら恥ずかしい 」という社会的通念がはびこっている。
正解を出した者だけを褒めていたら、完璧ばかりを求めていたら、「 一度も失敗せずに成功を手に入れることができる 」という間違った認識を植えつけかねない。
ブライアン・マギー
失敗前提
データとフィードバックは、有意義な進化への舞台に「 明かり 」を灯す。ポイントは、判断力を養える環境を作ることだ。有意義なフィードバックなしに改善は望めない。間違いを警告してくれる ” 信号 ” をシステムの中に取り入れる。
失敗の力を活かすには、コストを最小限に抑えることも重要だ。企業や政府が行う先行テストは、そのひとつの手段だろう。学ぶ機会をより小さい規模でつくることができる。しかし、忘れてならないのは、先行テストはあくまで仮説を ” 検証 ” するためのものであり、都合のいい ” 裏付け ” をとるためのものではない。あまりにも理想的な条件を揃えてしまうと、本実施の際に起こり得る問題について実質的に何も学べない。
プロジェクトが終わった後ではなく、実施前に検証を行う。
予めプロジェクトが失敗した状況を想定し「 なぜうまくいかなかったのか?」をチームで事前検証していく。失敗していないうちから、既に失敗を想定し学ぼうとする、まさに究極の ” フェイルファスト ” 手法と言える。チームのメンバーは、プロジェクトに対して否定的だと受け止められることを恐れず、懸念事項をオープンに話し合うことができる。
この事前検死は「 失敗するかもしれない 」と考えるのとは全く異なる。チームのメンバーは「 プロジェクトは実装した目標は達成できなかった 」と考える。「 既に死んでいる 」状態から始まって、検死 ( 検証 ) する。
所感
失敗は、データの集合体である。データ分析は、データがないと始まらない。だから、自分の足で、データを集めるしかない。自分の足で集めたデータは、自分の血となり肉となる。
失敗も成功もデータの一部であり、データに良し悪しはない。データは、モノゴトを判断するための集合体でしかない。ただひとつハッキリしているのは、データがないと判断できないのだ。データは、判断の基準である。データは多ければ多いほど、正確な判断が下せる。
必要なものは、データであり、データを分析するプログラムではない。いくら、プログラムが優秀でも、データがなければ、そのプログラムを最大限活用することはできない。まず、データを集めて、プログラムを少しずつ改良していく方が、最良の判断の助けになる。
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