【本要約】心に成功の炎を [ 中村天風 ]
2022/4/29
生きる心構え
「 食う・寝る・着る・儲ける、人生のただ一部分的な事柄だけを、本能や感情の欲するがままに、これを欲して、それを得られて満足し、得られないで悩みを感じている 」というような極めて浅い考え方で人生に生きている人が大勢いる。
一生は一度しかない。二生はない。一度死んでしまえば、二度と味わえない人生である。一生に一度の生命が、意識的に感覚している今日という日が、ドンドンドンドン過去にいってしまって、現在ある現実は、再び味わえない。瞬間、瞬間を生きねばならない。
心朗らかに、何にも心にわだかまりなく「 楽しい 」「 嬉しい 」という時を味わっている間は、時間も空間も超越してしまう。
- 本当に丈夫な人は健康のことを考えない。
- お金持ちは貧乏のことを考えない。
人生には、自分に振り当てられている仕事や事業を完遂して、有為の事実を現実化させなければ、人間としての広義の義務が、尽くされない。
- 肉体ばかり考えてもいけない、心ばかりを考えてもいけない。
- 心と肉体がひとつになって、私たちの生命が生かされている。
肉体が生きていけるのは、生命を生かすエネルギーがあって、それを心が受け取って、生命活動という現象が起こるからだ。
人生に生きる刹那刹那に、体よりも心を大事に考えて積極的に生かさなきゃいけない。
真理は峻険にして侵すべからず。間違った生き方に対する正しい心構えが万が一にも用意されないと、たちまち、事実が自分に反省を促す。その反省を促す事実とは、病や不運である。
アクシデントは、自己が知る、知らないを問わず、必ず自己が蒔いた種に花が咲き、実がなったのだ。
「 生きる心構え 」に、正しい自覚と反省が、常に油断なく行われていないで生きていると、悪い種を知らぬ間に蒔いてしまう。
- 怒ってはいけない
- 悲しんではいけない
- 恐れてはいけない
消極的な感情から、アドレナリンが発生して、肉体を傷付ける。
感情を統御して、心を積極的に活かすことが、人間の本当の姿である。
絶対積極
心の態度が少しでも消極的になったら、どんなに合理的で立派な方法であろうとも、完全な効果はそこにはない。
古代から、心を考えた人々はみんな「 心の態度を積極化する 」という問題が、人生の一番の焦点になっていた。それだからこそ、哲学が生まれ、宗教が生まれた。
心の態度が一念不動の状態に積極化されていないから、自分の思うような運命を手にできていない。
積極精神は、消極に相対した積極ではなく、絶対的な積極である。
・肉体でいうと、外界からいろんな刺激がくる「 痛い 」とか「 暑い 」とか「 寒い 」という刺激を受ける。
・「 怒った 」り「 悲しんだ 」り「 恐れたり 」といった消極的な感情が、心の中に起こる。
・相手が人間でも、何かの対象に対しても、心に張りあう気持ち、対抗する気持ちがある。
・「 張りあおう 」「 対抗しよう 」「 打ち負かそうとか 」「 負けまい」というような気持ちが全然ない。
・対象や相手に心が囚われていない状態である。
・心に「 雑念 」「 妄念 」が一切ない状態である。
・もう一段高いところにある気持ち、境地、これが絶対的な積極である。
・どんな大事に直面しても、どんな危険な場合に直面しても、慌てたり、恐れたり、あがったりしないで、平然自若として、普段の気持ちと同じように対処できる状態
・どんな目にあっても、どんな苦しい目、どんな思いがけない大事にあっても、日常と少しも違わない、平然として対処できる状態
積極的精神になってこそ、はじめて人間として立派に仕事をやり通せ、自分の人生を立派に生きていくことができる。
富士山というもは、天気だろうが、曇って雲がかかろうが、そのもとの姿は変わらない。あの状態、あれがいわゆる絶対積極の気持ちである。
- 意志が弱い人は心が弱い。
- 心が弱い人は意志も弱い。
・潜在意識の中に消極的な観念要素が溜まっている。
・感情や感覚の世界で、日々、生きていることで、生活態度が無意識にネガティブに傾いている。
・人生の瞬間瞬間に、避けられない感情や感覚のショックや衝動が、体に悪影響を与えている。
・観念要素の更改
・積極精神の要請
・神経反射の調整
意識があるときは、明るく朗らかに、生き生きとして勇ましく、心を保つ。
- ネガティブな発言をしない。
- 消極的な言葉を使わない。
「 弱いではなく、強くない 」と言う。弱いという消極的な言葉は使わない。
中村天風
- 言葉はどこまでも気をつけなきゃいけない。
- 言葉ばかりは、どんなに気を付けても、気を付けすぎて困ることはない。
- 無意識に、言わなくていいことを、ずいぶんと言ってしまっている。
↓
「 それも方法かもしれないけどね、こうやってごらん。 おれが教えるから、そうやったほうがいいかもしれないよ。」
「 だめだめ 」なんていうよりもいい。
僅かなことだけれども、元気が出る。
だから、心がけるべきことは言葉である。
「 自分が真理に順応して生きよう 」という気持ちの出たときは、もう既に真理に順応して生きている人間である。真似も真に迫れば、もう真実と同化する。
「 自分の態度が、どれだけ人生の全体を支配するかわからない 」と考える。
笑うにつれて腹が立ってくることは絶対ない。
人間の心は、そういうものだ。
もう少し、ニコニコした顔で生きる。
頭山満翁は、ニコニコニコニコ始終笑っている。怒っているのは見たことがない。
人として、この世に生まれて一番大切なことは、人に嫌われる人間になるのではなく、好かれる人間になることだ。
中村天風
孟子
強い生き方
インドでの修行中は、動物性のものは食べない。殺すときに動くもの、あるいは音を出すものは、食べない決まりになっている。稗を水に浸したものを食べる。そんな暮らしの中では、動物は人間を怖がらない。人間が動物を怖がらせない。人間は、動物性のものを食べないから、動物は安心している。
- 「 肉体が自分だ 」と思っていた。
- 「 肉体が人間の全体を代表している存在だ 」と思っていた。
- 「 自分だと思ってた肉体が自分ではない 」という本質に気付いた。
- 肉体は自己そのものではなく、自己の命のものである。
自分が着ている服は、自分の肉体じゃないことは、誰でもわかる。服は肉体が生活するためのひとつの道具である。肉体も、自分と思うのは間違いである。本当の自分から考えると、肉体は自分の命の付属物である。
体が自分だと思う。自分のものを自分のものと思うのならいいが、自分のものではないものを自分だと思うのは、いかがなものか?
現代の人間は、物質文化の中に生きているから、この思考が、すんなりとは腹落ちしない。
「 肉体を自分だ 」と思って生きていくと、生きる力が弱る。「 肉体を自分だ 」と思っていなければ、集中していたり、無意識のときなんかは、火事場の馬鹿力といったものが発揮される。
- 肉体を自分だと考える人 = 本能階級の人
肉体が主体になって、心が従体になっている。 - 心を自分だと考える人= 理性階級の人
心が主体になって、肉体が従体になっている。
理性階級の人は、精神至上主義という気持ちが心の中に起こってくる。一にも心、二にも心となると、理性を発達させて、知識の力で自分を統御していこうとしてしまう。
孔子
- 本当の自分っていったい何だろう?
- 命とは何だろう?
- 生きてないものは、命があるとは言わない。
- 生きていないものには、命という言葉は用いらない。
- 命とは、現象界に活動現象を表して生きている現実の状態に対する代名詞である。
–
- 肉体は自分ではない。
- 肉体が命の現実の生まれどころではない。
- 肉体は命の働きが現れてるところ = 活動現象の表現の場所である。
- 肉体は水道の蛇口で、命が水である。
命は、どうしてできたのか?
この世にありとしあるすべての生物は、みんな、この宇宙エネルギーの中にある生物となるべき気が原因を為している。
世の中の人は「 見えないからない 」と思っている。空気と電気は見えないけどある。
男の性欲は、人間をこしらえる気をエネルギー要素の中から自分の体の中に取り入れる資格ができてから、自然に感じる。種族の繁殖のために造物主が与えた生物の恵みである。
宇宙エネルギーを人間の心で「 性欲 」という観念で受け取ったときに、精子の中に、すべての形成を完全にする一つの尊い気が込められる。気が抜けたら、新しい生命を生み出さない。気が人間の生命の根本中枢である。気が入った肉体には、心を通じて宇宙人エネルギーが入る。心が積極的でなければ、宇宙エネルギーが、生命の中に充分に受け入れられない。
生きようと考えなければ、死ぬことも考えない。
人間は虚心平気、何事も考えないときが、一番無事な状態である。
本当に安心できる人生に生きると、病も煩悶も出てこない。仮に出たとしても「 自分の正体が気だ 」とわかれば、そのことに煩わされる恐れもない。
肉体は我が命の生きるための道具である。頭が痛かろうが、けつが痛かろうが、脈が速かろうが、それは自分がそうっていうんじゃない。自分の命を入れる入れ物に故障ができたけど「 心が故障から離れさえすれば、自然に治るようにできてるんだ 」ってことを感謝する。
着物が破れたら、そのほころびを縫わなきゃならない。
屋根が漏りゃ、屋根屋を呼んできて、そこを塞がなきゃならない。
人間のほうは、ありがたいかな、自分が何にもしなくても、そこから心が離れさえすればいい。
- 離れると消極的な観念がなくなる。
- 消極的疑念がなくなると、肉体の持ってる自然作用がその場所をもとの健全な状態にするために働きだす。
- これを普通の人は気がつかない。
病は気のせいだ。
- 「 自分が気である 」ことが信念化されると、生きる力が強くなる。
- 「 肉体を自分だ 」と思うと、心は常に肉体の変化につれて安定しない。
生きている限りは、生きてる。
生きてられなくなれば、黙って死ぬだけだ。
何とも思わない。
ただ、現在生きていることを楽しんでいるだけだ。
肉体がどうであろうが、こうであろうが、そんなことは何ともない。
人生は、心ひとつの置きどころである。
どんなに苦しいときも、苦しみを楽しみにする。
この一生、生きている間は、生きているように生きる。
生きてるように生きるとは、生きてることを楽しみにして生きることだ。
体の調子が悪くても、死んでない限りは生きている。
ならば、生きていることを楽しもう。
気が命のカギを握っている。
気が心をつくり、肉体をつくり、命を活動させている。
自分の正体は傷付けられない。
心に心配があって、気は心配しない。
心の正体
理解しても、理解を信念化しなければ、本当の理解にはならない。「 ああ、そうか 」という体験的理解を目指す。
(A) 肉体に属している心
(B) 精神生命に属している心
心が何か思うにしても、考えるにしても、どちらかの心が、心を働かす意識領域に出て、私たちに、いろんなことを思わせたり、考えさせたりしている。
一つの心だけが、自分の思い方や考え方を決定しているのではない。一つの心だけで思ったり考えたりするなら、人は苦労せずとも心をコントロールできるのだが、そうではない。
(A1) 物質心
(A2) 植物心
(A3) 本能心
(B) 精神生命の心
(B1) 理性心
(B2) 霊性心
(A1) 物質心
物のすべてに存在し、物の芯を為している。
形ある物は、形ある物を形成する中枢中核となる芯である。
物質心は、心を働かす意識領域に出てこない。
生まれるときに物質心が一番先にできて、肉体が作られて、死ぬときは、一番最後まで物質心が留まっている。
物質心は、生命にとってなくてはならない心だが、普段は活動していない。
(A2) 植物心
意識領域に出て活動しない心だから、活動していても、植物心の感覚はない。
五臓六腑は、植物心の命令で動いている、食べた物を消化する働きをしている。
植物心は草にも木にもある。鉱物には植物心はなく、物質心だけがある。
鉱物の変化は、鉱物それ自体の活動で変化しているのではなく、物質心の増減によって変化の状態が現れるだけだ。
植物心は何も直接的に脳が関与しなくても、命を保つ作用が働いている。起こったり、悲しんだり、恐れたり、憎んだり、悩んだり、苦しんだりする心になると、植物心に大きなショックが与えられる。そうすると、植物心と植物心がコントロールしている自律神経の働きが悪くなる。だから、心を消極的にしてはならない。心が積極的になると、植物心はありのままに働く、自然治癒力を高め、体を健康に保つよう働く。
(A3) 本能心
肉体生命を生かすために、常に意識領域に出て活動している心であり、人間以外の動物も持っている。
生きるのに必要な働きをを行っている心だから、動物心とも言う。
肉体を守るための心なので、肉体生命の中に栄養となるべき物質の欠乏を感じたとき、腹が減ったことを脳へ合図する。眠くなって寝ようとするのも、本能心である。生命が活動するとき、消耗が生じるので、消耗を再生するために、すべての動物に睡眠が必要となる。性欲も本能心である。
食欲・睡眠欲・性欲はすべて本能心である。
低俗な感情も本能心から出てくる。
闘争心、復讐心、憎悪心、猜疑心、嫉妬心
ほかにも、怒り、強欲 ( 金銭的欲 ) 、物欲 ( 所有欲 )、怠惰、暴食、色欲といった感情
私たちは、怒りや悲しみを他者にわかるように表現してしまう。さらに、他のことは辛抱強くないのに、そんな感情だけは、念を入れて長く続かせる。それを執着という。
何か嫌なことを心に感じると、本能心の中の劣悪な感情情念が出てきてしまう。本来、本能心は、肉体生命を守るための働きを行なうためにある。時代によっては、本能心でないと肉体を守れない。現代は、劣悪な感情は不要で、新しい本能心が必要である。本能心は、時代によって、必要だったり、不必要だったりする。
怒ったり悲しむような不快なことがあったら、自分の本心でが苦しみを感じているわけじゃない。本心は清い良心なのだ。本能心から劣悪な感情が出てきて、考えちゃいけないことを、自分の心に考えさせているための結果である。本心ではないのだ。
人間の本能心の中は、自分の肉体を生かすのに役に立つ働きをしてくれるものと、自分の肉体を自分の心をより悪くするような役に立たないものが、混ざっているような状態である。それが整理されると、役立つものだけしか残らず、本当の人間としての幸福が得られる。人間の心の中に、低級な動物的欲望や劣悪な動物的感情がある限りは、心の中に平和と平静はこない。
(B1) 理性心
- 人間だけに与えられた心
- モノの善悪・是非・邪正・曲直を見分ける心
人生の一切は、この理性に任せて生きることが、一番安全だと思い違いをしている。理性でコントロールできないのが心である。理性は、信頼できる絶対的な力を持ち合わせていない。
理性は向上し、発達し、日々、変化する。今日、自己の理性で判断しても、明日になると理性が発達しているので、判断違うことも往々にしてある。
だから、理性をあてに生きるのは、狂ったコンパスをあてに航海するようなものだ。
この衝突がはじまると、人生は、どんなに金があっても、どんなに知識があっても、はたから見て幸福そうでも、心の中はごちゃごちゃになってしまう。
理性心で、本能心をコントロールすることができるなら、何も人生に苦労する必要はない。知識をつけて理知になっても本能心はコントロールできない。
孔子
理性心と本能心をコントロールするのは、意志の力である。
意志は、霊性心とは異なる。
意志の力が出てくると「 必要な心だけ来い、いらない心はあっちへ行け 」と意志の力で追い出してしまう。意志を煥発させるには、意志の鍵を握っている気に、主体性を発揮させる。主体性を発揮させるためには、普段から心を積極化しておく。
理性に自分の心をコントロールさせないようにする。理性を尊重し過ぎない。
人生に様々な予期しない出来事が起こる。理性は知識の発達する程度にしか働かないので、理性では解決できない出来事が起こる。それによって、煩悶が心の中に広がり、不平不満・失望・落胆という肉体に感覚する苦痛よりも、もっと大きな苦痛を味わう。
(B2) 霊性心
人生を生きていく立派な認識力をもち、統御力を持っている心が、霊性心である。
人間の心に意識がともったときから、霊性心はあった。
生きるのに必要な、植物心・本能心・理性心は、必要に応じて出せばいいが、それに全生命を託してはいけない。全生命は、霊性心に任せなきゃいけない。
霊性心が一番だしやすい。
私たちは、一番だしやすい心をだしにくいと思って、迷わずにいい人生、苦しまずにいい人生を迷ったり、苦しんだりしている。
心の中に雑念・妄念といった消極的な観念を出す頻度を少なくする。霊性心は、雑念・妄念を取り去って、心が純一無雑のときに出てくる。
「 心は偉大な作用を持つものだ 」と自覚する。心の作用を生きている心身、毎日の人生に応用すれば、人生は生涯を通じて、生きがいのある状態で生きられるようになる。人生の三大不幸である、病・煩悶・貧乏を乗り越えて、楽しさと嬉しさを、感じながら生きられるようになる。
人間だけに与えられた霊性心でもって、人生を正しく統御して生きなければならない。
認識力の養成
認識力が不完全なのではない、自分の使用が完全でない。ある一部分しか使ってない。
世間には、ピンぼけな人が多い。
目は節穴、鼻は開いてるだけ、口はものを食うだけ、もう何もかもまともに使ってない。
人間がこの世に人間として生まれた以上、自己統御を行えるようにならなけばならない。
はたから見てたいして幸せそうに見えなくても、本人自身が真に自己の人生の刹那刹那、幸福をしみじみと感じて生きられているのが、本当の幸福である。そういう人生を過ごすには、自己統御を完全にしなければならない。そのためには、まず、自己統御の土台となる認識力を、完全にしなければならない。
現代人は、知識のみに重きをおいて、そして知識を増やすこと、磨くことばっかりを努力していて、この「 認識力の養成 」を疎かにしている。
認識力を置いてきぼりにして、知識ばかり説いてると、学べば学ぶほど苦しくなり、極めりゃ極めるほど迷ってくる。それは、正しい知識を分別する力がなくなってしまうからだ。どんなに、学問を勉強して、知識内容量を多くしても、心の持つ認識力が優れていないと、本当の人生、幸福を自分のものにすることができない。
認識力の養成
認識力の養成のためには、五官の感覚の機能を正確・優秀にすることだ。
五官という感覚器官によって、外界の一切の事情を自分の心に受け入れて、そして、自分の人生を守っていくことができている。
五官の作用が不完全だと、心の認識力も完全に働かなくなる。
私たちの心の中に生ずる色々な思い方や考え方、さらにその思い方や考え方をまとめてできあがる思想や、あるいは一連の観念のその大部分は、外界から私たちの目なり耳なりの五官を通じて、心の中に受け入れられた色々な印象が、その原因的要素をなしている。
「 何にも受け入れなかったことを心の中で考えだす 」というようなことは、霊感的な方面以外にはない。
自分の五官、感覚器官から、いつ受け入れたかは自分は知らない。知らずに受け入れたんだから。しかし「 その受け入れた事柄が現在の自分の観念や思想をつくっているんだ 」と気付かなきゃいけない。
私たちの生きてる間、私たちの周囲に存在するありとあらゆる事物・事象は「 精神生命に対しての栄養物である 」ということだ。ちょうど肉体生命に対する栄養物と同様である。
私たちは、口から入れる食い物ばっかりが重大なように思ってるけれども、精神生命を養う栄養物を外界から取り入れるほうが重大である。
目や鼻や耳や、あるいは舌や皮膚にもつ感覚作用が、外界の事物・事象のすべての印象を精神生命の中に受け入れる口になっている。
肉体に栄養物を取り入れるとき「 これは食っていいものか悪いものか 」「 食って栄養になるかならないか 」「 体のためになるかならないか 」と吟味して食べるのが当然である。
今まで見たこともないような珍しい食い物を見たときに、それは食い物だってことはわかっても「 これは、食ってもどうもないかい?」と聞く。
口から肉体に入れる食い物は用心していながら、精神生命に外界の印象を受け入れるときには、注意しないで受け入れてる。それが原因で、気の弱い神経過敏になる。
自分自身のことを見つめて「 自分が気が弱いか 」「 神経過敏か 」「 つまらないことを気にするのか 」「 気にしないのか 」「 悩んでしまうのか 」を考える。
外界から受ける感覚に対して、よく吟味して取捨選択を厳格にすることが、五官感覚の作用にとって最重要である。
ほとんどの人の持っている観念は、消極的であるから、注意深く吟味して、人生を過ごしていかないと、知らない間に、この消極的な観念感化をうけてしまう。
五官の作用方法
諸事万事に応接するときに、はっきりした気持ちでやる。
私たちは興味のあるものには、注力できるが、興味がないものは、スグに飽きてしまう。
何事に対しても、まずそのものの中から何かの興味を見いだすか、または作り出すかして、どんな興味のないものに対しても、必ず意識を明瞭にして接する習性をつくるようにする。
これを有意注意力という。有意注意力が習性化されてくると、自然と注意が注がれる範囲が拡大されていって、一度に多数または多方面に自分の注意を困難なく振り向けられるようになってくる。
その当然の帰結として、連想力が正確になり、思想の整理が自然に巧妙になされるようになると同時に、記憶力が良くなる。いったん、心の前におかれた事物のいっさいをその心に深刻に印象づけて、細大もらさず心の中の記憶の倉庫内にいれてしまうからだ。
反対に、不注意に見たり聞いたりしたことは、完全に覚えてない。
実際、古今ともに、いわゆる傑出した人物というのは、いずれもみんな有意注意力が完全な人々のことを言う。何ごとに対しても周到にその観念が総合され、精神も統一され、その結果すべての能力が突出する。
だから、いつも何事でも自分の好むことを行うときと同様に気をこめてやる。
五官感覚の理解
触覚は、五官感覚の中で一番普遍的である。すべての生き物が持つ感覚である。触覚作用は、肉体的苦痛や不快感、意志の集中によって、抑制できる。
視覚は、五官感覚の中で最も大切なもので、視覚の力と働きの及ぶ範囲は、他の感覚作用よりも、はるかに大きい。心の知覚作用の向上に一番重要である。
触覚・視覚・聴覚を修練していくことで、臭覚や味覚の作用もよくなっていく。
- 商売は、金儲けするつもりではなく、損しないようにやる。
- まず、環境をつくる。人が集まる艦橋をつくる。
- そして、商売仲間を儲けさせる。
経験した者しか知らない感覚・感情は、そのままそっくり伝えることは、言論を仕事とする天風でもできない。
虚心平気
本当のことをいうと、この世の中に恐ろしいことはない。本当に恐ろしいことは、自分が知らない、感じなくなることだ。死んでしまうことだ。そうなれば、他人が恐ろしいことでも、もう自分は何も感じない。あれは本当に恐ろしい。その他には、何にも恐ろしくない。
「 ああ、恐ろしいな 」と思ってるうちは、まだ恐ろしくない。「 ああ、恐ろしいな 」と思ってるときは、まだ自分は生きてる。死んじゃあ恐ろしくも何ともない。本当に恐ろしいことは死んじまったときだ。生きてる以上は、決して本当に恐ろしいことはない。
例えば「 痛い 」とか「 苦しい 」とかも「 痛い 」と感じてる以上は、痛くない。本当に痛いときは、もう感じなくなる。死んだ人が「 痛い 」といったことは聞いたことがない。
だから、天風は、どんなに痛いところがあっても「 痛い 」と言わない。
痛みを感じてる以上は、痛くないのだから、痛くない。
私たちは、痛いものは、痛い。それは「 痛い 」と感じる心が痛い。
怪我は、怪我したときよりは「 怪我をしたな 」と思ったときが痛い。
怪我でも何でも、気が付いたときが痛かったり、苦しかったり、悲しかったりする。気が付かない限りはどうもないんだから、これも同じことだ。気が付こうとするとき、その気をほかに回せばいい。
生き生きと勇ましく
心
心の問題は、科学の研究が進んだところで、現象世界の奥に隠されている神秘の謎で、一つのパズルである。科学じゃ心の問題を解けない。
芸術も、発明も、創意も、創作も、みんな一切合財、心から出ていて、その出ている心がわからない。心の正体は掴めない。
人生は一切合財、人事と言わず、世事と言わず、何もかも終始一貫、この不思議な謎である心が働いた結果として生じる現象である。
- 心が生まれながら人間に付与されている。
- 心の中に、意志の作用や記憶の作用がある。
- 心の中にある観念の力を積極的にすれば、積極的な人生ができ、消極的にすりゃ消極的な人生ができる
哲学では考えられる心の問題が、残念ながら科学ではまだまだできない。
・中枢神経
・自律神経
中枢神経
中枢神経は、主として各種の感覚や感情、さらに複雑な思想というようなものをも生みだす働きを司る。
- 人間の肉体に存在する五官感覚である目・鼻・耳・舌・皮膚に存在してるそれぞれの感覚を、脳に伝達する。
- 知覚やその他の意識状態を発生させる。
- いろいろな観念や思想を作成する。
中枢神経は、私たちの生命の命令指揮者となって「 私たちの肉体を私たちの心の欲するままに動かす、あるいは、処置してくれる 」という、ありがたい働きをしてくれる。
中枢神経は脳髄神経とも言われる。
・大脳
・小脳
・延髄
- 大脳は意識の一切を司る。
- 大脳は五官感覚の知覚を促す。
慣れない仕事が大変面倒で、受け入れるのに非常に困難を感ずるのは、最初大脳を使って、その行動を意識的に綿密に支配する必要があるから、非常に困難を感じる。
そして、小脳に受けとられてしまうと、もう大脳は支配しなくてもいい。小脳に任せとけばいい。
私たちは、何か難しい問題があるとすぐ、大脳を使ってしまう、しかし、難しい問題があると、小脳に「 考えておけよ 」と、小脳に考え方を任せてしまう。非常にできてる人は、苦労だと思えるようなものにぶつかっても、苦労しない。人間は小脳が脳髄の中にあるために、生活が気楽にできてる。
延髄は、肺や心臓や血管の運動、または、内臓のいろいろな器官の活動を支配している。意識領域の中にないので、大脳からの支配も受けない。
自律神経
・食べ物を消化して大便小便で出す排泄の作用
・内臓の各器官の働き
- 自律神経は、大脳の支配を受けない。
支配を受けていないから、生きている限り、夜寝てる間でも、働いている。 - 自律神経は、直接、大脳の支配を受けていないけれども、大脳の状態が非常に影響する。
- 大脳が積極的な状態で働かされていれば、この自律神経も積極的に働くけれども、心持ちが気弱になったり、神経過敏になると、この自律神経の働きが弱くなってしまう。
命は、体も心も一如だ。人間の生命は絶対二つなく、心だ、体だと分けるのが間違ってる。
心の働き一つだ。それを「 心 」というからいけない。ある「 気 」の働きの一つ。
- 「 気 」の働きを完全にするために、心の持ち方を積極的にする。
- 「 気 」の働きを完全に受け入れる器である肉体の生活もまた、真理から戻してはならない。
「 どうも私はそういう気になれないよ 」
「 どうもあんたの気持ちがわからないよ 」
「 何か気分が悪いよ 」
「 あいつはいいんだよ、あれは気が張ってるから 」
「 いやあ、あいつは気にいらねよ 」
みんな「 気 」である。
その「 気 」の働く場合に生ずる現象・事実を「 心 」といって、それでその心が働く場所を大脳といって、そして、その心だけは時と所によって、いろいろに変えてしまう。
心に成功の炎を
時代の変遷と共に、人間の思想は変遷していく、人間の生活の内容事情も違ってくる。
共鳴はできても、実行できない言葉は、壁に描いた食べ物と同じで、何の味もなければ、何のありがたい気持ちも感じない。
自己知
「 自己を知れ 」という言葉の意味は、有事の際の自分を明瞭に認識することだ。
やり方
- 過去と現在の自分をまず引き合わせて考える。
- 昔こういうことがあったときはどういう気持ちだったか。
それから、現在の自分はどんなふうな気持ちか。
過去の自分と現在の自分と、冷静に考えたら、本当の自分の姿がわかってくる。 - 現在のままで未来へ行って、良いか悪いかどうか。
悪いと思ったら「 未来における自分を現在からもっと進歩させなきゃならない 」と気が付く。
自分を、主観的に客観的に、縦から横から観察していく考え方が、「 自己を知れ 」という言葉の意味である。
心の解決力
ヨガのウパニシアッドの経典
自信の秘訣
- 何かの出来事や事情で、失望や落胆があったときに、今までと違った考え方をする。
- 一番先にその出来事なり事情を解決する手段や方法を考えないことだ。
私たちは、何とかして自分の現在の失望ら落胆したことを取り戻そうと、その出来事なり事情を解決するほうへ手段をめぐらすことが先決問題だと思う。
それが間違いである。
「 失望や落胆をしている気持ちのほうを顧みよう 」とはしないで「 失望や落胆をさせられた出来事や事情を解決しよう 」とする方を先にするから、いつでも物になりゃしない。
順序の誤りがあるからだめなんだ。
およそ人生の一切の事件は、ほとんどそのすべてが自己の心の力で解決される。心の力こそは生命の内部光明である。この光明こそは、いかなる場合があっても、不滅不断の常世の灯火として、我が命の中に輝かしていかなきゃならない。
自責思考
どんな人生の出来事でも、その責任の一部分は必ず自分にもあることを忘れてはならない。
みんなこれがわかってない。
思ってもいなかったことが、現実に自分の人生にできあがったといっても、それを自分が無意識的に思っていたことに気が付かないで、意識的に思ったこと以外には思ったことじゃないと、考えてる。
だから、実在意識が、感覚的に思ったことだけが思ったことで、感覚できない潜在意識の中で描かれた絵図が、現実に浮かびだしてきた場合には、自分には責任がないと感じる。要するに無意識の意識がその原因をなしている。
すべての出来事は、心の内部から、自分が知る知らざるとは問わない、心の内部から掲げられた合図によってつくられている。
私たち人間の生きてる背後には、始終そこに、その人の思い方のとおりに物をつくろうとする力が控えている。現象の背後に必ず実在あり。
積極的な心
悲しいことや辛いことがあったとき、すぐ心に思わせなければならないこと。
悲しいことや辛いことがあったとき、すぐ悲しんで、辛がってちゃいけない。
そういうことがあったとき、すぐに心に思わねばならないことがある。
すべての消極的な出来事は、私たちの心の状態が積極的になると、もう人間に敵対する力がなくなってくる。
だから、どんな場合にも心を明朗に、一切の苦しみをも微笑みに変えていくようにすると、悲しいこと、辛いことのほうから逃げていく。
苦悩の捉え方
自覚が進み、悟りが開けると、人は人生の苦悩を感じなくなる。
人間は、いかに自覚が進み、悟りが開けても、人生の苦悩と称するものとは縁を切ることはできない。
自覚のできた人間は、その苦悩をもっと、よりよく魂の糧として、どんどんいいことに振りかえていく。やたらに失望したり落胆したりはしない。
だから、今度、落胆するようなことがあったら「 よぉし、今度こそ、この失望、落胆を俺の糧として、この上を乗りきっていくぞ 」と考える。
不幸の原因は自分
- 人生の苦悩は、絶対的なものか?
- 逃れた災いなるものか否か?
人生の苦悩は決して絶対的なものじゃない。むしろ、苦悩に応対するときの心の態度で、その苦悩を感ずる程度が違うことを考えてみると、これはどこまでも相対的なものだと断定していい。
自分の心がある事柄を不幸と感じたから不幸になる。不幸と感じなかったら不幸にならないはずだ。
考え方が人生を幸福にもし、不幸にもするという点から考えれば「 人生の不幸は自らが生んだんだ 」という言葉に間違いない。
非を認める
自分で自分の正邪を、いいとか悪いとかを、正しく判断することのできない人は、下等だ。
私たちは「 ああ、私が悪かったんだ 」と思うことは、ほとんどなくて、たいてい何かそういうことがあると「 あいつが悪いんだ、あの人が悪いんだ 」と思う。
「 私のところじゃ、何か事が起こるだろ。そうすると『 あ、私が悪かった 』とこういう。誰でもいいから『 私が悪かった 』ってことを言って罪を背負っちまうと、けんかにならない。」
自分で自分の善し悪しを、正しく判断できない人は、低俗である。
本当の幸福
幸福は、人に自分の幸福を話すときよりも、人にも自分と同様の幸福を感じさせるときのほうが、本当の幸福だ。
信念
人間に信念がどれだけ大事か?
人間と信念の関係は、ちょうど魚と水のようなもの。魚は水なくしては生きられない。それと同様に、人間は信念なくしては一日といえども生きていかれない。
その信念とは何だというと、毎晩、寝際に鏡に向かって「 おまえ、信念強くなる 」といって自己暗示をかけていると自然とわかる。
今、私たちは、後から考えれば何も悲しむことじゃない、悔やむことでもないことを盛んにやってる。信念がないから、何かそうしなきゃそのときが過ごせないように、悲しんだり、悶えたりしてる。
幸福な人生
「 ああ、恵まれた、幸せだなあ 」というふうに感じる本当の人生の状態とは?
本当の人生の幸福とは「 どういう幸福か 」というと、人生に何の悶えもないときが一番幸福だ。
「 ああ、あれが欲しい 」「 これがこうなりたい 」というときは、もう幸福じゃない。一つの要求が出てくると、それが満たされるまでは少しも幸福を感じない。
これが、難しいようで、実は易しいんだが、易しいことを難しいように考えてしまう。
中村天風
感情の制御
人間を感情の動物と考えている限り、本当の人間としての価値の発揮もできなければ、また真の幸福も味わうことはできない。
人間とは感情を自由に統御しうる生物である。だから、感情に負けて、感情に追いまわされてる人間は、自ら人間としての権利を放棄している。
本能や感覚から生じてくる感情・情念を巧みに統御して人生に生きる者が、本当の万物の霊長たる人間である。
怒らなきゃならないから怒るんだ、悲しいことがあるから悲しむんだでは、だめなんだ。
- 悲しいことがあっても、それを楽しみに振り替える。
- 苦しいことがあっても、それを楽しみに振り替える。
- 腹が立つことがあっても、それを楽しみに振り替える。
正しく生きる
何ごとにつけ、今日以後の人生に対する計画を考えることは非常に必要だけれども、もっともっと大切なことがある。
たった今を正しく生きるにはどうすりゃいいだろう。
- 現在只今を、尊く生きる。
- 清濁併せ呑んで、その人を排斥しない。



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