自由と幸福の引き換え券

幸福

自由と幸福の引き換え券

2022/4/30

私は「 自由が欲しい 」と願い続けている。
「 自由でありたい 」とおもう。

私は、私の目線からしか、世界を捉えることはできない。
客観的視点というものほど、簡単ではない思考はない。
他人の目って何?

私は私なのだ。

しかも、私は、他人の目が気にならない方だ、これまでの経験からして。
余計に客観的視点は難しい。

でも、ふと、気付いた。
公園で、子どもと遊んでいる家族を見て。
子どもがいるパパは、子どもと遊ばなければならない。
家族がいるパパは、家族を養わなければならない。
幸福かもしれないが、自由じゃない。不自由である。

私は、私の時間を、私の自由にできている。
私は、離婚して、家族を手放した。
私は、子どもと遊べない。
私は、自分しか養えない。

私は、不自由という幸福を手放して、自由という幸福を手に入れた。
  • 「 子どもがいる 」ということは、責任がある。自由じゃない。
  • 「 子どもがいない 」ということは、責任がない。自由である。
責任とは、荷物のことである。
  • 自由じゃないは、責任がある、荷物は多い。
  • 自由は責任がない、荷物は少ない。

荷物は最低限で少ない方がいいか、モノに囲まれた方がいいかは、その人の価値観次第である。

そして、私は、荷物が少ない方がいい。
モノは少ない方が機敏に動ける。

明日から世界一周に行くためには、何も持たないのが、理想の暮らしである。

『明日、世界一周に行く』という人生
自分の世界一周という夢を叶えたり、親孝行した結果、幸福は、お金の上に成り立つんだなと気付いた。幸福や自由に考えてみた。「明日、世界一周に行く」という自由の定義が可視化された。今日を最高な1日にするための魔法は、明日、1番好きなことをする日をいう希望を持つこと。

自由は無責任で、不自由には責任がある。

私は、子どもも欲しいし、自由も欲しいんだが。
それは、両立できなさそうなことに、今さらながら気付いた。

それは、つまり、もう自由は、十分に満喫したという合図なのか?

「 無責任な自由を手放して、子どもという責任のある不自由を手に入れるときがきた 」ということなのか?

自由という幸福を捨てて、不自由という幸福を迎えに行くときなのかもしれない。

ひとりの幸福は、自由で無責任でいい。
でも、家族の幸福は、不自由で責任がある。
ひとりの自由という幸福と引き換えにしか、家族の幸福を得られないのか?

なるほど、今の私には、この答えしか出せないから、未来の私に、別解を出してもらおう。
どちらともの幸福を手に入れる手法を。

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