【本要約】入門!岡本太郎
2022/1/21
岡本太郎の最高傑作は、実は、作家自身であった
岡本太郎という芸術を届けた
岡本太郎という芸術を届けた
生きることの根源のありようを「芸術」と呼んだ太郎にとって
「 芸術 」とは「 なにをつくるか 」ではなく「 どう生きるか 」であった。
つくりたいからつくっただけ。
作品はいわば、岡本太郎という生き方のエビデンスのようなものだ。
作品という名の商品をつくる作家とは一線を画す。
岡本太郎が生涯を通じてつくりあげた唯一最大の作品は、岡本太郎自身である。
「 あなたは絵描きでありながら文章も書く。どちかが本職なのか? 」と問われたとき、即座に「 人間だ 」と答えた。それが、岡本太郎の芸術の核心である。
芸術は、ちょうど毎日の食べ物と同じように、人間にとって欠くことのできない、絶対的な必要物、むしろ、生きることそのものだ。
「 ぼくはパリで、人間全体として生きることを学んだ。画家とか彫刻家とか一つの職業に限定されないで、もっと広く『 人間全体 』として生きる。それがぼくのつかんだ自由だ。 」
岡本太郎の活動は、芸術的な運動ではなくて、社会的な闘いである。
自分自身に充実する。自分自身の生き方、その力を掴むことだ。
自分が創りだすことであり、言い換えれば、自分自身を創りだすことだ。
「 どうして芸術なんかやるのか? 」
創らなければ、世界はあまりにも退屈だからつくるのだ。
イマジネーションによって、宇宙人と遊ぶのだ。
惰性的な空気の死毒におかされないためにも、人間は創造しなければならない。
子どもが嬉々として跳ねまわり、無心に遊びに熱中する。宇宙がそれを中心にひっくり返っているような生命感。
大人になるほとんどが、そんなふうに遊ばない。すべての動作が合目的的、それだけに躍動感がない。例え、遊んでいるつもりでも、功利的だ。そして、生命の奥底では、本当に遊ぶことのできない己に絶望しているのだ。
イマジネーションによって、宇宙人と遊ぶのだ。
惰性的な空気の死毒におかされないためにも、人間は創造しなければならない。
子どもが嬉々として跳ねまわり、無心に遊びに熱中する。宇宙がそれを中心にひっくり返っているような生命感。
大人になるほとんどが、そんなふうに遊ばない。すべての動作が合目的的、それだけに躍動感がない。例え、遊んでいるつもりでも、功利的だ。そして、生命の奥底では、本当に遊ぶことのできない己に絶望しているのだ。
空しい目的意識や卑小な合理的主義に振り回されてしまわないことだ。自分が「 何である 」とか「 何々ができる・できない 」ということよりも「 こうありたい 」「 こうしたい 」ということの方を中心に置く。その欲望が実体なのだ。遊びにおいてこそ、無条件の生きがいとプライドを掴み取ることができる。
私たちは小利口になってしまった。
自分の行く先や自分の限界も見え過ぎている。
だから「 無理なんだ 」と決めてしまっている。
そこに空しさがある。
できなくってもいい。が、やるべきだ。
遊びだからだ。
自分の行く先や自分の限界も見え過ぎている。
だから「 無理なんだ 」と決めてしまっている。
そこに空しさがある。
できなくってもいい。が、やるべきだ。
遊びだからだ。
人間はドンドン進歩していく。しかし、私たちの肉体の中には、人間の長い歴史が何らかの形で含まれている。肉体の中に、根源的なものと未来が含まれている。
新しい芸術は両極の緊張がもたらす花火の中にしか生まれない。
それが、岡本太郎の芸術思想 = 対極主義である。
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