幸福の結論

湯浅

幸福の結論

2020/10/21

幸福は絶対的なモノじゃない

『スーパー銭湯の中で、でかい風呂に浸かりながら、幸福について、考える。』

それは、世界一周の一つの答えであるかもしれない。

世界中で、いろんな国で、いろんな世界を見て、いろんな人と接して、いろんな生活に触れる。これまで、日本で積み上げてきた価値観が、バラバラになっていく。旅をしている時は、バラバラになっていく感覚はなかったが、今、わかる。今、再構築しているからだ。崩壊するときには気づかなった感覚は、構築する時に、はじめて気づく。

日本は、幸福である。日本人として生まれただけで、幸福であると。

世界中にある、貧困、仕事、食事、人、人生、様々な価値観に触れたからこそわかる感覚である。

幸福とは、相対的なモノ でしかない。幸福は、絶対的なモノだと、誰もが信じて疑わない。幸福は、お金の上に成り立つと、信仰している。

食事から見る幸福

1年間、モチモチの白米を、食べたいときに食べられない。1年間、うどんを、食べたいときに食べられない。1年間、ラーメンを、食べたいときに食べられない。

世界中で食べられるのは、チキンとパサパサの米である。いや、米があれば、まだ、いい方かもしれないし、麺なんて、めったに食べれる食事ではない。どんなに伸びきった麺であっても、麺を食べれること自体がまれである。

3大欲求のひとつ、食欲が、満たされないのである。美味しいモノを食べたいという、いや、日本ならどこにでも安価で売っているし、どこでも食べられるうどんを食べたいということすら、困難を極めるのである。

海外のスーパーでうどんを見つけたって思って、手に取る。それは日本の数倍の価格である、当然である。でも、うどんを食べたいから買う。日本で食べるうどんより、全然、美味しくないうどんを日本の数倍の値段で買う。

そんな世界は、別に残酷ではない。うどんをいつでも食べられると考えている価値観が、幸福を阻害している。

幸福とは、相対的なモノである。

うどんを食べられない世界からは、うどんを食べられる世界は幸福に見える。うどんだけじゃなくて、お酒を呑める自由も、風呂で湯舟に浸かれる自由も、実は、幸福なのである。

でも、その幸福に気づかない。それは、自分がその幸福を享受していることを理解していないからだ。

幸福とは相対的なものだから、比較する対象を広げることによって、得られる。

幸福とは、かんたんに言ってしまえば、それは、単なる価値観 に過ぎない。

だから、価値観の変革によって、幸福は、かんたんに得られるとも言える。

幸福の見つけ方

『こんな大きな露天風呂に、入っている、今は、幸福である。』

幸福は、こんなにもかんたんに買えるのだ。

幸福のためには、お金が必要であることは否定できないが、お金は絶対的な存在じゃない

周囲の人が、年収300万円の環境であれば、年収500万円の環境は、幸福に感じるが、
周囲の人が、年収700万円の環境であれば、年収500万円の環境は、不幸に感じる。

年収や、お金も相対的なモノだ。誰かと比較するから、足りないと感じる。そうすれば、欲望は青天井である。

お金にコントロールされるのではなく、自分の絶対的な価値観で、お金をコントロールする。
そうすれば、意外と、目の前に、幸福はあるのかもしれない。

幸福や、お金も相対的なもので、誰かに決められるものではない、自分の価値観によってのみ決められる。

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