幸福への道のり

幸福

幸福への道のり

2021/10/27

私たちは、幸福になるために生まれてきた。幸福を願わない人間はいない。
しかし、幸福とは、個人によって異なる概念だ。
  • 変化を好まず、地元で結婚し家を買い子どもを育てる。
  • 結婚はするけど、子どもは作らない。
  • 結婚しない。
  • 健康に長生きしたい。
  • 短命でも、健康など気にせず自由に生きたい。
①それぞれの価値観によって、幸福は異なる。
②幸福は定義できない。
③幸福は定義できないが、幸福への道のりはある。

私たちの脳は快楽を求めるようにプログラムされている。

肉体的快楽で思い浮かぶのが繁殖活動である。繁殖活動が快楽を伴わなけば、人類はこれほどまでには、繁栄しなかったはずだ。瞬間的な快楽の象徴が射精であり、オーガズムである。

食事もまた、快楽である。美味しい料理をお腹いっぱいに食べることは、生命体としての活動維持だけではない、快楽がある。食べ過ぎによる生活習慣病・肥満・ストレスによる過食など、食事が快楽をもたらすから、止められない。食事がもたらす肉体的快楽を求め過ぎると、健康を損ない、肉体が蝕ばれる。

私たち人類は快楽に抗えないように設計されている。

肉体的な快楽ではなく、精神的な快楽もある。赤ちゃんを抱っこしたときのほんわかとした気持ちや、動物と接しているときのほのぼのとした気持ちなどである。

そして、社会的な快楽もある。友人と会話しているときの心地よさや、友人とスポーツに熱中しているときの興奮といった、誰かとつながることで得られる快楽である。

家族や彼女や友達と旅行して、一緒に会話したり、食事したり、観光したり、動物に触れたり、スポーツをする。肉体的・精神的・社会的快楽が入り混じると私たちは「楽しい」と感じる。

快楽の集合体が「楽しい」という感情を作る。

楽しいときには、楽しさに夢中だから「楽しい」と気が付くことは難しい。
だから、いつも、「楽しかった」と後から思う。
「あのとき、楽しかった」と感じる。

私たちが「幸福だ」と思うのは、いつだろうか?
私たちは、いつ、幸福を感じるのだろうか?

「あの時は幸せだったな」と思ったことがあるはずだ。

・好きな人と付き合い始めたとき
・仕事がうまくいっていたとき
・結婚して結婚生活を送っているとき
・子供が産まれて子育てしているとき

幸福は一瞬の快楽でも、快楽の集合体である楽しさとも違う。さらにその先にある。楽しさの継続が幸福である。楽しい状態が続くのが、幸福である。

付き合って、メールして、電話して、いろんなところへデートして、食事をして、酒を呑んで、イチャイチャして、セックスして、その人と一緒にいた時間が楽しかった、その人と過ごした時間が幸せだった。

仕事して、仲間と協力して、トラブルもあって、それをみんなで乗り越えて、呑みに行って、残業して、土日出勤して、ガムシャラにみんなで仕事して、成果が出たときは、そのときは、マジで大変だったけど、「みんなで頑張って結果出す」って、なんか幸せだった気がする。

結婚して、好きな人といる毎日に期待していたけど、イライラすることもあって、でも、ずっと一緒にいられることが楽しかった、だけど、だんだんと、新鮮さがなくなって、日常化していった。それを喪失したとき、「あの何でもない毎日が幸せだったんだ」と気付く。習慣化してしまったことには、人は意識を払わない。だから、その習慣が損なわれたときに、初めて、意識する。幸せは、ただそこにあったことに。

子どもは、幸福の象徴だ。血のつながった親は目に入れたら痛い、血のつながった子どもは目に入れても痛くない。親孝行したいけど、親のためには生命を投げ出せない。子どもためには「死んでもいい」とすら思える。自分の命より大切な生命体と過ごす日々は、すべてが幸せに満ち満ちあふれる。離婚して、子どもと会う回数が減り、子どもと会うことがなくなる、人生最大の失敗兼人生最大の幸福の喪失である。

楽しさが、少し時間を経てから、楽しさを感じるように、幸福もまた、時間というか、次のステージに移ったときに、過去を回想しておもう、感覚である。

私たちの幸福への道のりは、快楽を求め、快楽の集合体である楽しさを求め、楽しさの継続によって幸福へと辿り着く。

そして、幸福は、今の幸福になかなか気付けないような仕組みである。

彼女がいること、仕事があること、家族がいること、子どもがいること、目の前のことに、改めて、目を向けると、そこに幸福があるのかもしれない。

幸福はなるモノではなく、気付くこと。

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