大人たちのかくれんぼ
2022/3/20
私にとってのかくれんぼ
- 子どもがかくれんぼをしていた。
親が、鬼である。 - 子どもは、私の目の前のベンチに隠れた。
親が来て、見つかった。 - 親が鬼となって、2回目のかくれんぼが始まった。
私は「 どこに隠れるのかな 」と思ったら、まさかの、同じところである。
私の目の前のベンチに隠れた。
私は、笑いが堪えきれなくなって、声を出して、笑った。
「 同じところー 」って、声を出してしまった、思わず。
心の声が、表面化するくらい、おもしろかった。
私にとって、かくれんぼは、かくれる行為自体を楽しむものだ。いかに上手にかくれて、鬼に見つからないようにするか。鬼が探している姿を聞いて見て、楽しむ。鬼に見つかりにくいほど、自分の作戦がうまくいったことを表す。
そんな感じのゲームである。
だから、私にとって、同じところにかくれるという行為は、かくれんぼ自体の楽しみをすべて台無しにする行為である。全くもって、意味がわからない。
だからこそ、おもしろいのだが、そのギャップに笑ってしまうのだが。
・子どもは、かくれんぼに何を求めていたのだろうか?
・子どものかくれんぼの楽しみは何だったのだろうか?
私に、ふと、先日読んだ本の知識が降りてきた。
すべては、相対である。
ある物質と別の物質は、相対的な関係から、成り立っている。
そうか、子どもにとってのかくれんぼは、親との相対だったんだ。
親とかくれんぼをすること、親に見つけてもらうこと、親と遊ぶことが目的だったんだ。だから、かくれる場所なんて二の次で、どこでもいいのだ。かくれて、親に見つけられたいのだ。もはや、かくれることすら、必要ないかもしれない。親が「 自分を探してくれている 」という行為に対して、楽しみを覚えているのかもしれない。親が自分のために何かをしてくれている、自分と一緒になって遊んでくれている時間を楽しんでいるのかもしれない。
大人のかくれんぼと子どものかくれんぼ
大人は、かくれんぼというゲームがあって、
ルールは「 こう 」で、
目的は「 こう 」で、
楽しさは「 こう 」で、
ということを知って、そのゲームを楽しむ。
子どもは、かくれんぼというゲームがあって、そのゲームを楽しむ。
大人にある間の「 こう 」が、全部、吹っ飛んでいる。
子どもにとっては「 こう 」は、どうでもいい。
どうやって楽しむかは、自分で導き出す。自分で勝手に楽しむだけだ。かくれんぼというゲームすらも、自分が楽しむための手段でしかないことを知っている。別にかくれんぼじゃないくてもいいのだ。何でもいい。自分が楽しいことが大事なのだ。
大人は、仕事というゲームがあって、そのルールは、会社に勤めることで、目的は、お金を稼ぐことで、楽しさは、楽しさについてなんて考えないで淡々と作業をすることで、ということを教えられて、そのゲームで一生を終える。
子どもは、何もいらない、ゲームすら必要ではない、与えられた環境で、遊ぶだけだ。だからこそ、世界中の子どもは誰であっても、どんな環境であっても、自分に与えられた仕事をする=遊んで楽しむ。
私たちは、大人になって「 成長した 」と思っている。確かに、体は大きくなり、知識は付き、ひとりでお金を稼いで暮らせるようになった。親からの自立という意味では、成長したかもしれない。
でも、「 楽しむ 」という意味においては「 自分が楽しむ 」ということにおいては「 成長した 」とは言えないだろう。成長どころか、退化してる。大人は、子どもみたいに人生を楽しめなくなっている。
大人の方が自立して自分で何でもできるようになっているはずなのに、人生を楽しめなくなっている。
・楽しんでない大人になりたい子どもはいるだろうか?
- 石を叩いて、石を叩いた手の感触を感じて、ケラケラ笑っている子どもをうらやましいと思う。
- なんかもう、よくわからないけど、とりあえず、動きまわっている子どもをうらやましいと思う。
- とりあえず、あっちに早く行きたくて走っている子どもをうらやましいと思う。
お金を稼げるとか、効率的とか、便利とか、楽だとか、早いとか、なんかもう、そんなの全部、放り投げて「 楽しそうワーイ 」で人生を楽しめたら、きっと、子どもみたいに楽しめるはずだ。
・実は、成長しているように感じているだけで、生き物として、退化していないか?
コメント