いつもと違う故郷

湯浅

いつもと違う故郷

2021/10/28

空港まで親が迎えに来てくれる。

1人で帰っても、
2人で帰っても、
3人で帰っても、
そしてまた、
1人で帰っても、
2人で帰っても

いつも迎えに来てくれた。

今日は迎えがない。
実家に帰らない。

だから、空港からバスに乗って、街へ行く。バスで移動する。それは、何だかむず痒い感じだ。自分の故郷なのに、自分の故郷を違った側面から眺めている。自分の故郷なのに、なぜだか少し遠い感じがする。少し色が薄い。家族9割・他人1割な感覚である。

この街に帰るのは、親が生きている間なのか?
それとも、友に会いに帰ってくるのか?

多分、どんどん、色が薄れていくのだろう。この街とのつながりが、色づき具合だろう。この街とのつながりを失う度に、色褪せていくのだろう。

かつて、10年も住んだ街が、モノクロのようになってしまったように。

もちろん、街の景色がガラリと変わったわけじゃない、ちょっとだけ変わっただけなのに、買ってきたばかりの塗り絵のような、色がない世界がある。

住んだ街は自分とのつながりの強弱によって、色の濃淡が決められる。

いつものお店でいつものお好み焼きを食べる、いつもの店主のおばちゃんがいて、近所のおばさんがいて、田舎だから、親の知り合いだったりして、そこには、人がいて、長崎人がいて、ここには、確かにつながりがあった。

街を見るだけでは、つながりは見えない。

つながりというネットワークは、この街に張り巡らされている。目に見えないだけだ。自分と街のネットワークをつなげている線がある。その線の大きさが、街の彩りを決めるのだ。この街とのつながりが薄くなればなるほど、街の色はモノクロに近付いていく。

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