人間は平等か?

幸福

人間は平等か?

2020/11/13

プールに行くと、知的障害者がいた。一緒のプールに入っているので、それとなく知的障害者を見てしまう。

プールに入っている間、ずっと同じ空間にいた。なるほど、知的障害者も、程度があるんだなと、自分で着替えができないダウン症から軽い知的障害までいる。

彼らは、自分一人で生きて行くことはできない社会的弱者である。そして、湯浅は、自分だけでなく、親を含めた家族を養うことができる社会的強者である。そして、天皇は、日本国の象徴である。

僕らは、現在の常識では、全員、人間という扱いではある。

『天皇は、神である』という常識もあったのだから、常識とは、時代によって、変容する価値観に違わない。

今は、『人間は、平等である』という常識の世界である。

キリストが生まれた頃は、罪人や売春婦は、身分が低いというのが常識だった。
それをキリストは、人間は平等と言った、その当時からすると、キリストは非常識な人間であった。

本当に、人間は平等なのか?

湯浅がブラジルに行っても駅名は、変わらない。でも、天皇家が行くと、駅名が、変わったという事実から、人間は平等ではない。

人間は平等でないということは、命の価値は等しくないということである。

パンピーである湯浅の命と、天皇家の命の重みは、違う。天皇家の命の方が重い。

湯浅が、死んでも、古墳にならない。

社会的弱者である知的障害者と、湯浅はどうか?

価値観なんて、人それぞれだし、湯浅は人に価値を付けるほど大それた人間ではない。一方で、経済的価値という一点についてはどうか?湯浅は、40歳まで、タバコ税、酒税、消費税、もちろん、所得税、住民税など、全部合わせたら、多分、1億くらいは納税している。

知的障害者も、消費はするから、当然、納税はしているが、障害者手当の受給額の方が多いであろう。ある意味、間接的に、湯浅は、彼らに税金を通して、支援しているとも、考えていい。そうすると、経済的価値においては、あくまで経済的価値において、彼らより、湯浅の方が、価値がある。だから、湯浅の方が偉いとかは、もちろん、全然思わない。ただ、人間は平等ではないとは思う。彼らだって、好き好んで、知的障害になったわけではないのだ。本来ならば、自立して生きたかっただろう。

湯浅と彼らの違いは、脳のどこかが、ほんの一部違うに過ぎない。知的障害者は、脳の一部に、ほんのちょっと欠陥があるだけである。でも、ほんのちょっとの脳の欠陥で、他人の助けが必要な人生か、自立した人生かが決まってしまう。これを平等だと、人間は全て平等だと、湯浅は、言えない。でも、それは、湯浅の価値観であって、彼らは、自立してなくても、幸せかもしれない。価値観も、幸せも、人それぞれなのだから。

プールにいるときは、言語化できなかったけど、こうして、書いてみて、はじめて、自分が、そのとき、何を考えていたのかが可視化された。

歴史や天皇について、学ぶことで、常識や平等の価値観が、時代によっても、もちろん、人によっても違う。

正解は、ない。
一つの答えは、ない。

常識も、平等も、幸福も、その全ての価値観も、自分の心の中にしか、ない。

だから、自分の価値観を明確にして、自分の幸福を定義する。

そこに、自分だけの幸福がある。

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