人類不平等理論
2022/4/10
自分の価値観
それは、つまり、「 人の命の価値は等しい 」ということと同質である。
アフリカの子どもと、自分の子どもの命の価値は等しいのか?
アフリカの子どもに向けて寄付して、その命を育むことよりも、自分の子どもの成長に投資する。
自分の価値観では、自分の子ども命は何ものに変え難く尊い。
・私たちは、社会的通念という客観性を重視しながらも、結局は自分の価値観という主観でしか、世界を認識できない。
- 善と悪があるのではない。善の不在を悪と呼んでいるだけだ。絶対的な悪など存在しない、悪は善の不在だからだ。
- 光と影がある。影は絶対的な存在ではない。光の不在によって影があるだけだ。影に光を当てると影の存在はなくなる。
- そして、善とは光のようなものだから、これもまた、絶対的なものではない。太陽は沈む。太陽の不在が夜である。夜という絶対的なものがあるわけではない。この地球には、白夜という、太陽が沈まない世界もある。
私たちは、自分の価値観を疑うことをしない。自分の価値観が善の不在であることにも気付かない。
私たちは、言葉を通して、自分の価値観を構成してきた。
私の価値観は、
・赤い色が好きだ。
・チーズを美味しいと感じる。
・旅にワクワクする。
・自分の子どもが一番大切である。
他者の価値観は、
・赤い色は血の色だから恐怖だ。
・チーズは発酵している = 腐っている。酸味と苦味は、腐敗と毒の表現だから、本来、人間の味覚には適合しない。
・旅なんかしないで、自分の家でゆっくりと、くつろぐのが、一番いい。
・自分の子どもはいらない。
私の価値観は、私にしかマッチしない。
価値観の造成
そもそも、自分の価値観はどうやって育まれてきたのか?
- 私たちは生まれた時、言葉を知らない。
- 誰かの言葉を聞いて、親や教師やメディアを通して、言葉を学んできた。
- 私たちは、言葉を使って考える。
- 私たちの言葉は、誰かから学んだものだ。
- 私たちは「 自分の言葉を使って考えている 」と勘違いしているが、誰かから学んだ言葉を反芻しているに過ぎない。
- だから、私たちの価値観は、自分のオリジナルではない。
- 誰かの受け売りに過ぎない。
「 独自の価値観だ 」というのは幻想である。
真理は打算
「 自分の子どもが一番大切である 」という価値観ですら、永劫不変の真理ではない。
自分の命と、子どもの命、どちかしか救えないならば、子どもの命を救うだろう。
タイタニックのジャックのように。
子どもの命が、自分の命よりも絶対的に優先されるから、子どもの命を救うのではない。
子どもの命が、自分の命よりも大切という善に対して、善の不在はどうなるのか?
仮に、子どもの命よりも自分の命を優先させたとする。
その現実に、自分の判断に、一生、悩まされることになるだろう。
子どものことは、もちろん大切だ。しかし、その裏には「 善の不在という闇を抱えきれない 」という思惑がある。
ジャックはローズを愛していたけれど、それよりも、ローズを見殺しにした人生を歩めなかっただけだ。
真理は幻想
「 自分の子どもをかわいいと愛でる 」ことすら、永劫不変の真理ではない。
昔は、私たちは、今より、たくさんの子どもをつくっていた。それは、子どもが小さいうちに死んでしまう夭折が日常であったからだ。未開の地域のある部族では、子どもが大きくなるまで名前をつけないという風習がある、それは、名前をつけてしまうと愛着が湧いてしまうからだ。夭折よりも中絶の方が多い世の中が現代である。
それよりも、もっともっと、昔は、私たちは、もっとたくさんの子どもをつくっていた。そのときは、すべての子どもを平等に愛することなんてできない。そもそも、種族の繁栄のためには、貧弱な個体を淘汰し、優秀な個体の生存を促す必要があった。子どもを選別し、弱者を殺し、強者のみに餌を与えるという戦略をとることで、繁栄してきた。そう、私たちが、まだ、卵のまま、子どもをなしていた、哺乳類になる前は。
社会とは、人間の集団であるから、自己保存と進化のプログラムが統合されたシステムである。
社会的通念は、システムが生み出した幻想に過ぎない。
人類が本当に平等を正とするならば、共産主義の国が崩壊することはなかったはずだ。
それでも、私は、幻想の中だとしても「 自分の娘を愛している 」と信じた。
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