私は、草

★重要

私は、草

2021/11/23

草は人間でいうところの神経がないので、痛みを感じることはない、感じる?感情すらない、何かに対して、喜怒哀楽を持つことはない。そもそも、動けないし、自分の仲間を含む生き物に対して、何かをはたらきかけることもできない。

例えば、人間のように話したり、一緒に遊んだり、異性とセックスしたりできない。ただ、あるのは、意識だけである。今を生きている。太陽を浴びて、栄養を補給して生きている。雨水を補給して生きている。脳がないから、記憶もない。日々、空と私がある。天気が良くて、晴れならば、太陽を浴びる。天気が悪くて雨ならば、水を補給する。曇りならば「曇りだな」とおもう。ただそれだけだ。

人間のように思い悩むこともない。人間の世界には、自殺というモノがあるらしいが、そもそも、私は、動けないので、何もできないので、そういう発想にすらならないが、自分の命を絶つほど大変な世界とは、人間社会は恐ろしいモノだ。「人間に生まれなくてよかった」と思う。

私は、草、植物なので、太陽と水さえあれば、自然の恵みさえあれば生きていける。動物界でも、弱肉強食という、ルールはあるが、自然の恵みで生きていける。食べモノを食べる必要があるのは、動けるモノの定めである。

私たちは、植物だから、土と共に生きているので、動くことはできず、植まっている。だから、太陽と水だけで生きていける。だけど、動物は、動くから、太陽と水だけでは、生きるのに必要なエネルギーを補給することはできず、食べなければならない。「動ける」という自由は、「生きるための食物を探し続ける」という不自由と隣り合わせである。私は、草だから、毎日、空と睨めっこしていればいいが、動物は、毎日、食物を探さなければならないなんて、私は、草でよかった。

動物は、自然の恵みだけだから、まだいい。食物を探して、食べるだけだから、まだいい。

人間は、自然の恵みだけで、生きられないらしい。昔は、人間も、動物のように、自然の恵みだけで、狩猟採集だけで、生きていたのだが、人間は、自分で自然を作り出すことを始めたのだ、農耕生活である。私の仲間である植物を、栽培して、食物を安定的に確保する術を覚えたのだ。人間が自然に背いた初めての瞬間である。

農耕生活のおかげで、これまで自然淘汰されていた人間が、生き延びるようになった。生命力のない人間、体が弱い人間、動物を狩れない人間は、自然の摂理に従って、淘汰されていく運命にあった。しかし、農耕生活によって、これまで淘汰されていた人間が生き残るようになった。

それによって、人間は、爆発的に増加した。

人間は、植物界や動物界を我が物顔で牛耳るようになった。自らを万物の霊長と言って、すべての生命の頂点として位置付けた。

人間は、万物の霊長で、食物連鎖の頂点にいるから、自分が食べられることはない。

だから、殺されることはないのか?

人間は人間で殺し合っている。
人間同士で、殺している。戦争で殺している。

・法律で殺している、脳死、死刑。
・薬で殺している。
・ウィルスで殺している。
・食べ物で殺している
※加工食品による、塩分・糖分・脂肪分の過剰摂取によって、肥満や生活習慣病と言った病気が、意図的に蔓延させられている。

人間とは実に愚かな生き物である。いや、それも、生き物としての定めなのかもしれない。人間は、食物連鎖の頂点にいるから、殺されることがないから、殺し合うしかないのかもしれない。自然の摂理として。

食物連鎖の頂上にいることが、万物の霊長というほどの生き物なのだろうか?
人間は偉い生き物なのだろうか?

例えば、
猫が、隣にいる犬に対して、「俺はお前より偉い」と言う。
キュウリが、隣に植えられているトマトに、「俺はお前より偉い」と言う。
木に実ったミカンが、隣に実っているミカンに対して、「俺はお前より偉い」と言う。

生命の重みは等価である。猫に「俺は動けて、お前は草だから、動けないから、俺の方が偉い」と言われても、お前は、毎日、餌を探して大変じゃないか。俺は、毎日、何もしなくても、生きていける。草である俺と、猫であるお前と、どちらが偉いかは、わからないけど、間違いなく、俺の方が生きやすいのは確かだ、何もしなくてもいいのだから。

私たちは、草、植物は、生き物だから、動物の餌になることもある。生き物である限り、自然の定めだ。ただ、幸いなことに草には神経がないので、痛みを感じることはない。動物に食べられたときに、意識がなくなるだけだ。動物は意識があるし神経もあるから、痛みを感じる。この差は大きい。命を終えるときに、苦痛の中なのか?意識が消えていく感覚なのか?

痛みは、動けるモノに与えられた運命なのだ。動ける以上は、何かしらの不慮の出来事が起こる、知らない間に体が傷付いていることがある。痛みがなければ、負傷に気付かないで放置してしまう、気にせず無理をして悪化させてしまう、死んでしまう。だから、体の異常を知らせるために、痛みが存在する。動く生き物に必要な機能として痛みがある。

私も草だから、「人間に踏まれたり、動物に食べられる」という、不慮の出来事はあるけれど、そこに痛みという機能を搭載するほど、よくあることではない。動かないから、痛みがなくても、「十分に、生きていける」ってことだ。人間に踏まれたくらいでは生きていけるし、動物に食べられても根っこまで食べられなかったら、また、復活できる。

動植物の世界は、生命の世界である。

植物に向かって、石が言う。

「お前は、太陽のエネルギーを浴びて光合成をしなければならないし、水を補給しなければならないしから、大変だな」

石には命がない。石は生きていない。ただ、そこに在るだけだ。石は生命がないから、死なない。地球の誕生と共に生まれて、ずっと在る。もちろん、動物のように動くことはできない。私たち、植物と同じだ。しかし、石は、私のような草ではないから、土に根を張っていない。生きるための水分を補給する必要がない。だから、稀に、動物の気まぐれで、移動できることもある。

私は草だから、草としての天命を全うするだけだ。命がない石がいいとか、動ける動物がいいとか、なんかよくわからない人間がいいとか、知らない。石は石で死なないから大変だし、生きているから動植物や人間は死ぬから大変だ。どっちがいいとかなく、どっちでもいいもなく、どうでもいい。

選択しない、比較しない、どうでもいい。

人間だけが、「どうでもよくない」と生きている。

私は草だ。
私は毎日を生きるだけだ。
生きるということすら、おこがましい。

私は、今、存在している。
私は、ここに、存在している。
私は、存在している、草だ。

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