大事なモノは見えない

2021/11/8
私たちは空気がないと10分も生きられない。
空気は目に見えない。
海や川の中に入ることで、空気を認識できる。
海や川の中は、水で覆われている、空気がない。
空気がない世界を体感して初めて、空気の存在を意識する。
私たちは、見えないモノに気付けない。その存在を認識できる世界へと行くことで気付くことができる。ある世界では知覚できないが、別の世界では知覚できるということだ。
在るモノはない世界にいかないと知覚できない。在るモノがなくなることで初めて知覚できる。恋人と別れて恋人への愛を知り、家族と離縁して家族のかけがえなさを知り、子どもと会えなくなって子どもへの愛情を知る。当たり前のことなんてない。
私たちは、裸で生まれて、何にも持っていなかった。それから得たモノは、すべて、この世界で手に入れたモノだ。ありがたいモノなのだ。有難いのだ。
大事なモノは見えない。
私たちは、目の前の事象にとらわれてしまいがちだ。木は、四季の移り変わりによって、その様相を変化させていく、春には桜が咲き、夏は瑞々しい葉が生い茂り、秋には紅葉し、冬には裸の木となる。でも、木が生きるために1番大事な、水分補給するための根っこは見えない。私たちの見えない地中に広く根を張っているから、木は季節の変化に耐えることができる。
私たちは、見えないモノに気付けない。私たちは、草花を抜いて遊ぶという体験を通して、また、学習を通して、植物には根があり、そこから水分を吸収して、植物が生きていることを知る。
近くにいる自分が作った家族
遠くにいる自分が作られた家族
遠くにいる自分が作った家族
私たちは、いつも、家族のことを考えて暮らしている。
大事なモノは見えない。
目の前の一部しか、見えない、目の前に広がる世界しか、認識できない。
木を見ていても、その全体像の森は見えない。気が集まって森ができていることに気付かない。木ばかりを見てしまう。目の前にある木だけを見て、木があると認識してしまう。
私たちは、見えないモノに気付けない。
木の集合体は、森だ。木が集まっているモノを森という知識がなければ、森を認識できない。目の前の木だけではなく、視野を広くして、それ以外の木のことも、認知してこそ初めて、森だと認識できる。でも、森という木はない、森は木の集合体という概念でしない。森は見えない、知識で獲得するしかない。
私たちは、個人の集まりを社会と呼んでいる。私たちの目の前には、個人しかいない。個人を俯瞰したモノが、社会である。社会という人はいない。社会は個人の集合体という概念でしかない。
社会は見えない、でも、私たちは、社会という概念に抑圧されて生きている。社会の共通のルールという、社会通念を、常識と呼び、常識に囚われて生活している。
一方で、社会は、人々が集まることで、個人では、できないような大きなことができる。米や野菜という食糧は個人で作ることができるが、自動車や家屋は人々が協力して初めて作ることができる。
大事なモノは見えない。
モノゴトの本質を思考して見極めることによって、本当に大事なモノ、自分にとって大事なモノが、認知できる。

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