僕が失ったモノ、子どもが持っているモノ

社会

僕が失ったモノ、子どもが持っているモノ

2021/3/5

電車に乗ったら、ボールペンが落ちていた。ボールペンを認識した。ボールペンが落ちていると認識した。終わり。

それは、電車の広告と同じようなモノだ。今、この本が売れているだ。ヘェーである。

自分に興味がないことには、人は注意を払えない。僕らは、とても忙しいから、自分の興味がないことに、時間も意思も割けない。

俺が電車を降りる時に、小学生の男の子が、ボールペンを拾って降りた。たまたま、同じ駅で降りた。

拾ったボールペンは、その男の子が、自分のものにするとおもっていた。そして、その事に、別に何の感情もなかった。だけど、違った。駅員に落し物だと渡していた。

俺にとってボールペンは、100円くらいの何でもないモノである。でも、その男の子にとっては、誰かが落としたモノである。つまり、誰かが困っているモノである。

ボールペンを落としたくらいで、大人は困らない。ボールペンを拾った子どもは、ボールペンを落とした人のために、届ける。

  • 子どもは、「落し物は、誰かが困っているから、届ける」と教えられる。
  • 大人は、落し物は、誰かが困っているから、届ける。

大人と子供の差は何だろうか?

経済的評価である。

  • ボールペンも、財布も、誰かが困っているかもしれないから届けるのが、子どもである。
  • ボールペンは届けないけど、財布は届けるのが、大人である。

どちらが正しいとか、間違ってるとかはない。

大人になると、その判断基準が、経済的要素という基準に変わるだけだ。

世界に、正解も不正解もない。

  • 誰かにとって悪は誰かにとっての正義かもしれない。
  • 誰かにとって正義は誰かにとって悪かもしれない。

正義も悪もない世界が現実世界、否、いつだって、正しさなんて存在しないのが現実世界

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