私は、書きたい

湯浅

私は、書きたい

2022/1/16

私は、書きたい。

「何かを始めるためには、その前に、何かを止めることだ」と、本で学んだ。

確かに、なるほど。

今の習慣を止めなければ、新しい習慣は、身に入らない。

私は、無職だ。

42歳のおじさんが働いていなければ、お金を稼いでいなければ、世間的には、結構異質だ。

社会的には、無職だし、ニートだし、引きこもりと、呼ばれる存在である。

私は、今年の目標を立てた。

働くこと。
お金を稼ぐこと。

流石に、これ以上、社会的に、職業がない生活を続けるほどのメンタルを保持できなくなってきたし、「人と話したい」という気持ちが芽生えてきた。

だから、1番の習慣で、今、1番夢中になれること = 書くこと を止めることにした。だから、これは、今年に入ってから、初めて書いている文章である。

書くことを止める前にしなければならないことがある。これまで書き溜めた文章があるので、それを推敲して、形にして、世に出さないといけない。新しく書かずに、書き溜めた文章を形にすることを、毎日、繰り返していくことで、やがて書き溜めた文章はなくなる。それが、書くことを完全に止めることである。

それを繰り返していて、気付いた。

「 書きたいな 」と思った。

今、だいたい1ヶ月前に自分が書いた文章を推敲しているのだが、我ながら、「 中々いい文章を書くではないか 」と思ったのだ。

「ありがとう」の作り方
「ありがとう」のためには「あなたはこれに困っていますよね?」という問題提起が必要になる。問題の答えが出尽くした現代では、自分で気付いていない問題を伝えることに、価値がある。

今の私には、今の私にしか書けない文章がある。

私は、今、書くことを止めている。

私がやりたいことは、私が今1番やりたいことは、書くことなのだ。

世間的には、私には、職業はない、無職だ。お金を稼いでいない人は、無職だ。私は、毎日、本を読んで、本を要約して、過去の自分が書いた文章を推敲して形にしている。

新しく書いてはいない。

書くことを止めているからだ。

「 書くことを止めないと働けない 」と気付いたからだ。

私は、書きたい。

でも、働くためには、書くのを止めなければならない。

心の葛藤である。メンタルにくる。

なぜ、私は働かなければならないのか?

今のような生活をするための資産を築くためである。今のような生活、本を読んで、要約して、文章を書いて、という生活がしたいから、その為の資産が必要だから、働かなければならない。

人は誰でも、好きなことだけして生きていきたいけれど、ほとんどの人が、できない。私たちは「 生きていくために、働かなければならない 」と教えられて成長してきた。そして、大人は、みんな働いている。

私も、今のような生活を続けることはできないことは、知っている。どこかで、今の生活に区切りを付けて、働かなければならない。だから、今年の目標を働くことにした。そして、書くことを止めて、働こうとしている。

今までの習慣を止めること、書くことを止めることは、容易ではない。こうして、書かずにはいられない現状がある。

私は、なぜ書くのか?
否、書かずにはいられないのか?

私は、日々、本を読んだり聞いたりして、インプットしている。インプットしたものは、アウトプットしないと身にならない。だから、本を読むときは、スマホ片手に、要約しながら、読んでいる。そして、後日、要約した文章を推敲して、ブログという形で、世に出している。

そうやって、本から得た知識を元に、思考する。思考していると、文章が溢れてくるのだ。ちょうど、コップに注がれた水が、表面張力を超えて、溢れてくるようにだ。それを書いているだけだ。

私は、本を読んで得た知識を思考して、吐き出している。私は、本で得た知識を日常生活に当てはめて、思考して、吐き出している。私にとって、吐き出すことが、書くということだ。

頭の中で、思考していることを、整理するために吐き出している。

「 書こう 」と思って書くのではなく、溢れてくる思考を文章にしながら、書くことでまとめている。

バラバラになっている思考の断片をひとまとまりの文章にすることで、理解を深めている。

だから、私は、書きたいのだ。

私は、昨日の私とは違う。
昨日の私よりも、知識が増えている。
思考して新しい自分になっている。
その存在証明としての書く行為がある。

私は、今も、「 書こう 」と思って書いているわけではなく、頭の中から、溢れてくる文章をスマホで、文字にしているだけだ。

何も考えていない。

ただ、溢れる言葉をスマホに書き続けているだけだ。

それは、習慣の力かもしれないし、才能かもしれない。

私にとって書くことは、歯を磨くような、シャワーを浴びるような、食事をするような、何でもない日常の1コマである。

結局は、書くこととは、別に、働いてお金を稼ぐということをしなければならない。

働くと決めたのだ。

私は働く。

「 書くことを止めよう 」と思ったけど、中々、簡単ではなさそうだ。だから「 書くことを控えよう 」くらいの気持ちでいよう。

「 本を読むことを止めよう 」と思ったけど、それも、一筋縄ではいっていない。

幸福という退屈
幸せは堪能してしまうと、幸せという退屈が待っている。幸せになるためには、不幸が必要なのに、不幸を除外されると、幸せなはずなのに、幸せが当たり前になってしまう。

でも、変化はあった。本は家に持ち込まない。図書館で借りて、図書館で読んで返す。本は、全部、読まない。必要なところだけ読む。明らかに、本を読むペースが速くなった。それは、知識の積み立てによって、既存の知識が増えることで「 知っているところを読み飛ばす 」という術を習得したこともあるんだろう。

書くことを一度止めてみた、控えようとしてみた、何かが変わるんだろう。本を止めようとしたみたいに。そうやって、本や書く時間を圧縮していって、空き時間を作り出していく、そこに、働くを入れるんだろう。

書くことによって、可視化された。私は「 自分が何を考えているか 」を可視化するために、書いているのかもしれないと、今、唐突に感じた。

本を読むことも、文章を書くことも、止めなくていいから、時間を短縮して、少なくして、時間を捻出していくことから、働くことが始まる。

人は簡単に180度変わらない。だから、少しずつ変えていく。

「 働こう 」と思っていたら、働くはずだ。

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