私は、不完全な生き物

湯浅

私は、不完全な生き物

2021/11/20

人間は、忘れる生き物である。

「人間は、忘れるからこそ、生きていける」とも言える。

記憶は消えないから、無意識の中に、脳の中に、存在している。記憶が意識に上がってこなくなる現象を、忘れるという。

辛いこと、嫌なこと、悲しいこと、ネガティブなことは、時間と共に、無意識に移動していく。私たちは毎日忙しい。だから、過去のネガティブなことばかり思い出してはいられない。

ネガティブなことがあったら、日々を忙しく過ごすことだ。
時間の経過が、ネガティブを和らげる。

忙しい最中で、ネガティブなことを思い出す機会がどんどん減っていく、ネガティブなことが意識に上らなくなっていく、そして、無意識の中に閉じ込められたとき、忘れる。

しかし、無意識の中で覚えてはいるので、何かのキッカケで、意識に上がってくることもある。

ただ、それを繰り返す度に、そこに付随していたネガティブな感情が、少しずつ剥がれ落ちていく。

確かに離婚した直後は、放心状態だったが、その後は、仕事にのめり込み、忙しくすることで、精神を保っていたのかもしれない。

ネガティブなことだけでなく、日常の中でも、ちょっとしたことを忘れる。忘れ物をしたことがない人はいない。そもそも「人は間違える生き物だ」とする文化がある。間違えることが前提となっているのだから、忘れることがある。

いい意味で、人間対して諦める、期待しない、期待するから怒りの感情が湧いてくる。
期待しないと、怒れない。
相手への期待と現実の差が、怒りである。
相手に期待しなければ、怒れない。
  • 赤ちゃんに、仕事をしたり、学校へ行ったり、料理をしたり、風呂に入ったり、ご飯を食べたり期待しない。
  • 場の雰囲気を読んで、感情を表に出して泣かないことを期待しない。
  • 「トイレに行きたい」って話すことを期待しない。
  • 「夜には寝る」ということを期待しない。
  • 赤ちゃんには何も期待していないから、赤ちゃんに怒れない。
期待しなかったらいい、自分の思い通りに世界は回らないように、他人も動かない。

他人に期待しない。人間は間違える。その間違いさえも期待から来るモノだ。「自分の答えがあるから、期待があるから、間違いだ」と思ってしまう。何にも期待しない。怒りもない。間違いもない。

そこには、ただ事実しか残らない。それが、現実だ。現実をあるがままに受け入れること、感情に波風を立たせないこと。人は間違える。自分も間違える。他人も間違える。

そこに感情はいらない。事実だけしかない、だから、事実を元に、感情を無視して、新しい未来を創造する。感情は、娯楽だ。遊びの一種でしかないのだから、その感情を元に未来を決めてはいけない。遊びは遊びだ。遊びで、人生の重要な選択肢を決めることはない。だから、「他人の言動で起こる感情は遊びだ」と捉える。

他人は自分の感情を動かしてくれるオモチャである。オモチャに怒ってもしょうがない。オモチャは、遊ぶ以外の効用はない、遊んで楽しいのが、オモチャだ。感情を娯楽として捉え、他人をオモチャだと思えば、感情にコントロールされない。

他人を自分と同価値と見なし、他人も「自分と同じように考える」とおもうから、不満が生まれる。他人を「娯楽のオモチャだ」と捉えることで、不満は、なくならないまでも、小さくなる。怒らずに穏やかに過ごせる。

「私たちはどう生きるか?」なんてことはわからない。

「私たちがどう毎日をできるだけ穏やかに生きるか?」くらいのことは、思考の積み重ねから、生まれる。

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