仕事教
2021/5/13
仕事を絶対的なものとして信じている。
仕事をしなければならないと、信じている。
それは、仕事教を信仰していることだ。
仕事教について考えるには、まず、「なぜ仕事をしなければならないか?」と問う。
多くの人は、「お金を稼ぐため」と言う。
お金を稼ぐために仕事をする。一見、正しいように思える。
例えば、仕事をしなくてもお金を稼げたら、どうなのか?
最高じゃん。
資本家は、資本を投資して、労働者を働かせて、お金を稼いでいる。
資本家は、仕事しなくてもお金を稼いでいる。
だから、「お金を稼ぐために仕事をする必要はない」ということになる。
でも、多くの人は資本家じゃないから、労働者として仕事をする。仕事をしてお金を稼ぐ。
ここで大事なのは、「資本家になろう」ということではない。
お金は、資本は、投資することによって、自己増殖していく機能があることだ。
仕事教は、仕事をしなければならないという信仰は、お金の自己増殖機能によって、否定される。
「仕事をしなければならない」という思想は、宗教だ。

お金教
世界に絶対などない。何かを絶対的に信仰することを、『宗教』という。お金を絶対的なものとして信じている。それは、『お金教』を信仰していることだ。

学校教
世界に絶対などない。何かを絶対的に信仰することを、宗教という。学校を絶対的なものとして信じている。それは、学校教を信仰していることだ。

科学教
世界に絶対などない。何かを絶対的に信仰することを、宗教という。科学を絶対的なものとして信じている。それは、科学教を信仰していることだ。

健康教
世界に絶対などない。何かを絶対的に信仰することを、宗教という。健康を絶対的なものとして信じている。すべての人が、「健康でありたい」と願っていると思う。それは、健康教を信仰していることだ。

常識教
世界に絶対などない。何かを絶対的に信仰することを、宗教という。常識を絶対的なものとして信じている。それは、常識を信仰していることだ。

国教
世界に絶対などない。何かを絶対的に信仰することを、宗教という。国を絶対的なものとして信じている。それは、国教を信仰していることだ。
コメント