正義も常識も価値観でしかない

社会

正義も常識も価値観でしかない

2022/4/30

私たち人間は、不快を避け、快を求めて生きるよう設計されている。
  • 冬は寒い、布団の中は暖かい。冬の朝起きるのは、暖かい空間という快から、寒い空間からである不快に、移動する行動だ。
  • 夏は布団の中と外で、寒暖差が少ないから、快から不快に移動する行動ではない。

だから、冬は夏よりも、起きることに対して、エネルギーが必要になる。

私たちは、自分の快の行動に無意識に従って行動している。

私たちが仕事をするのは、お金を稼ぐためだ。仕事が不快だったとしても、お金を使って快を得るために、仕事をする。美味しいものを食べる。欲しいものを買う。行きたいところへ旅行する。私たちは、生きるために、生活するために、仕事をしているのではない。快を得るために仕事をしている。

そして、不快は悪じゃない。不快は快のために必要である。不快があるから、快がある。快だけじゃ、快たり得ない。

ずっと雨は不快だ。晴れは気持ちいい。でも、ずっと晴れだと、晴れが当たり前になって、別に普通のことだから、快にならない。雨があるから、晴れを感じて快たり得る。

物事は相対性である。

ジェットコースター、最初の落下地点まで、ゆっくりゆっくり進む。早く落ちることを味わうためには、ゆっくり上がらなければならない。

物事は、相対的な差が大きいほど、ギャップを感じる。

「 楽しい 」という快を最大限に味わうためには「 悲しい 」という不快を最大限に享受しなければならない。

物事には、相対性が存在するが、快や不快は、人それぞれの価値観によって定まる。「 サウナや水風呂を快 」と捉える人もいるし、「 熱くて寒くて何が気持ちいいのかわからないから不快だ 」と捉える人もいる。

「 食べ物の好き嫌い 」という快と不快は、人によって異なる。そこには、相対性は存在するが、そこには「 良い悪い 」といった価値観はない。食べ物の好みには、正しいとか、間違いとか、絶対的な基準はない。

絶対的な正義はない。
絶対揺るがない常識はない。

戦争が正しいときもあれば、戦争が悪なときもある。人類史は戦争史である、戦争が悪という価値観は、現代の常識でしかない。戦争が絶対的に悪いという価値観は、日本の常識でしかない。世界には、戦争は絶対悪ではなく、必要悪だと捉える人も存在する。それどころか、戦争が必要だと捉える人も存在する。

物事は、人それぞれの価値観によって、正義か悪かも決定付けられる。

私たちは、快を求めて、不快を避けるように、設計されているけれど、その快・不快という相対性は、万人に共通なものなどなく、物事に絶対的なルールは存在しない。

私たちがどんな人間であれ、すべての物事に一定の規律などなく、すべての物事を、自分の価値観で解釈しているに過ぎない。

私たちは、ひとりひとり違う存在で、誰ひとりとして、同じ価値観を持っている人はいない。みんなバラバラの存在である。

しかし、私たちは、一人で生きていけるようにDNAにプログラミングされていない。だから、他の誰かの価値観を知って共感して「 仲間になりたい 」という願望がある。マンガも、ゲームも、映画も、仲間が増えることが前提となっている。それは、本能に基づくからだ。

個性、独身、リモートワーク、クラウドソーシング、社会は、ひとりひとりの価値観に最適化されてきた。

最適化がもたらした結果は、本当に一番の快の状態、幸福なのだろうか?

私たちが、合理的なロボットのような存在ならば、最適化こそ、極みである。しかし、私たちは、感情を持つ、不合理な動物だ。全部、合理的になど生きていけない。ダラけるし、ズルするし、嘘も付くし、サボる、ルール通りに合理的に行動できない存在だ。

合理的最適化は、私たちの生存戦略における最適化でない。

  1. 私たちは、合理性ではなく、感情が主な行動源である。
  2. 私たちの感情を生み出すのは、自分の価値観である。
  3. 私たちは、自分の価値観の近い仲間と過ごすことへと回帰するのだろう。

結局、私たちは、自分の価値観と近い共同体の一部としてしか、存在しえない。

自分の価値観が大勢の仲間に受け入れられる人が、共同体の中心となる。

個々の時代だからこそ、人々は、つながりを求める。

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